金融翻訳者の日記/A Translator's Ledger

自営業者として独立して十数年の翻訳者が綴る日々の活動記録と雑感。

マスコミの記者の皆さんに対する違和感(2019年10月10日)

現在、翻訳ストレッチの日本語音読用教材として①『メディアが動かすアメリカ』(渡辺将人著、ちくま新書)、②『政治部不信』(南彰著、朝日新書)、③『長期政権のあと』(佐藤優山口二郎著、祥伝社新書)を読んでいる。①は次回勉強会のテキスト。②は勉強会参加者の方から数カ月前に進められた本、③は朝日新聞の書評で見つけて買ったものであって3冊も同系列が並んだのは初めて。まとめ読みしようと思ったわけではない。

まだ読んでいる途中なのだが、どの本からもちょっと違和感を覚えるのは、政治部の記者は政権との間に一定の信頼感を築いてこそ「大事な情報を教えてもらえる」という理解がマスコミの皆さんの間には浸透しているのではないか、という印象だ。

1.マスコミは権力の監視機構だ。ある意味で「敵」なのだ。そもそも敵に対して自分の隠しておきたい情報を話すはずがないじゃないか、とまず思う。敵からは情報を取ってくるのが当たり前であって、敵から情報をもらえると考えることが前提とすれば、マスコミはそもそも「負けている」のだ。

2.政権が持っている情報で、「特定のマスコミに流してよい情報」などあるはずがない。政府は国民に対して政権策定過程や結果についての説明責任があるのだから、全員に対して極力同時に発表すべき性質のもののはずだ。安全保障上の理由や個人的人権に対する配慮から本来発表すべき情報を例外的に伏せるということはあり得るが、これは「誰にも明かさない」ということであって、一部マスコミに流す話でもない。ということは、特定のマスコミが政権に「信頼されて」、ある一部の情報だけを流してもらう関係はそもそも成立し得ないことになる。

昔は許されていたかもしれないが、今は許されない。少なくとも許されない方向に時代が流れていると思う。これは上場企業の役員とアナリストの関係と同じだ。

3.では、マスコミで働く人々は「敵」である政権から信頼されなくてよいのか?それは違う。マスコミ(の記者)が、国民の知る権利のために信念に基づいた記事を書き、それを多くの人々に読んでもらうためには、政権から信頼され、国民から信頼される必要がある。「敵ながらあっぱれ」という言葉もあるのだ。敵なのだから基本的には情報は出せない。しかし相手の立場を尊重しつつ、一定の規範の中で対等に会話はできるはずなのではないか。

4.要するに、僕の印象では「政権からの信頼=特別な情報をもらうための必要悪」という思い込みが関係者にあるのではないか、と思ったわけです。