金融翻訳者の日記/A Translator's Ledger

自営業者として独立して十数年の翻訳者が綴る日々の活動記録と雑感。

「人は弱いから群れるのではない」:出会った言葉(昨年~3年前の今日、FBお友だち限り投稿への書き込みより)(116)

(1)昨年の今日
子どもは、大人の都合で人生を左右されるものである。
(竹富利亜「イシグロの内なる世界」『ユリイカ』2017年12月号特集「カズオ・イシグロの世界」p62)
*引用文は、カズオ・イシグロ自身が親の都合でイギリスに行き、2年ぐらいで戻ってくる予定が変更となり、慕っていた祖父と(図らずも)一生別れることになった事情がイシグロの作品における祖父と孫のエピソードや、大人たちに翻弄される子どもたちの運命といった彼のモチーフに投影されているという文脈。僕自身は自分の子どもがもっともっと小さい頃にこのことを深く意識すべきだったと今さらながら反省しています。

(2)2年前の今日
健康がいい、という社会は不健康だ
加藤典洋著『言語表現法講義』岩波書店、P73)
*:孫引きです。大元の文章は、『高校生のための批評入門』(松川由博他編集、ちくま学芸文庫)に所収されている森毅「不健康のまま生きさせてよ」から。このフレーズの意味は次の文章ではっきり分かる。「みんなが『正常なよい仲間』になろうとしたって、いじめは解決されない。仲間のなかで『異常』であることが許される状態だけが、いじめの問題を解決する」(同書、同ページ。これも森さんの文章の孫引きです)。
誰かに優しくする、とか弱い人を守る、といった考えをも超えた考え方で、僕はこれを読んで、直接虐められた経験がほとんどない僕は、実は思い上がっていたんじゃないかと思ってハッとした。

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(3)3年前の今日
私たちの多くは、自由に考えてはいないし、自由に喋ってもいない。そしてもしかしたらそのことを自覚してさえいない。常識、規範、人間関係に縛られ、場の空気を読み、思考の幅も発言の内容も無意識の内に自己規制している。
「考える」ということはその抑圧から解放されることなのだ。
……(中略)……
哲学対話というのは、問題解決を目指した討論ではなく、自分自身を解放するための身体的なエクササイズなのである。
野矢茂樹「『考えるとはどういうことか――0歳から100歳までの哲学入門』梶谷慎次著(幻冬舎新書)』書評」本日付朝日新聞読書欄より)

(4)4年前の今日
人は弱いから群れるのではない。群れるから弱くなるのだ。
(本日付朝日新聞一面『群れるな』寺山修司著の広告より)