金融翻訳者の日記/A Translator's Ledger

自営業者として独立して十数年の翻訳者が綴る日々の活動記録と雑感。

A Potential Shift in the Global Standard for Translation Directions(March 9, 2024)

Traditionally, the global standard for translation has been converting foreign languages into one's native language. I understand this approach is predominantly due to the richer vocabulary available in one's native language for expressing ideas (with Japanese-English translations often considered an exception). However, the advancement of AI technology is significantly narrowing the gap in expressive capabilities between foreign languages and native languages. Could this development not heighten the importance of understanding the original text in translation? Ultimately, the best method for producing high-quality translations efficiently might involve:

  1. When the source language is native and the target language is foreign, a human who understands the original text could use AI to translate it into the target language, then fine-tune the translation while interpreting it in the target language, leaving the nuances of expression to AI, or
  2. When the source language is foreign and the target language is native, a human could understand the original text with or without AI's assistance before crafting the translation. While AI might be used to broaden the range of expressions, the fine-tuning of these expressions should remain a human task.

In this context, what becomes paramount when AI is leveraged to its full potential for unlimited expressions? It's likely the comprehension of the original text (source language).

Thus, if we presuppose the use of generative AI in translation, might the global standard shift towards translating into foreign languages rather than into native languages? The rationale being that understanding of the original text is inherently deeper when it's in one's native language than in a foreign language.

Applying this to English and Japanese, it suggests that Japanese translators would be better suited for Japanese-to-English translations, and native English speakers for English-to-Japanese translations.

Could we be on the cusp of a change in the global translation standard?

The above is merely my hypothesis and the predictions based on it.

 

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翻訳方向のグローバルスタンダードが変わるかも - 金融翻訳者の日記/A Translator's Ledger

写経(原文と訳文の書き写し)のやり方と、最近の気づき

毎朝10分、写経をしている。僕は村井章子さんを最も尊敬しているので彼女の訳書を2冊、その原著とともに毎日交互に書き写しています。なるべく大きめの大学ノートを見開きで使い、1行目に原文、2行目にに日本語を書き写すという・・・という単純な方式だ。写経とは元々仏教用語で「仏教経典を書写すること」(コトバンク)という意味だが、いつの頃からか我々同業者の間では、原文と訳文を写す作業をこう呼ぶようになった、と僕は理解している。僕自身は毎日これを始めて5年は経っていると思う。

書き写す際には、原則として原文一文(ピリオドまで)を書き写し、原文の文末ごとに、それに相当する日本語訳を書き写すようにしている。大半の文章は原文のピリオドと日本語の句点が一致するのだが、原文が終わっても日本語が続いていることもあるし、その逆もある。元々は、原文のピリオドまで来たところでいったん日本語に戻って書き写すことでスペースの調整をするためにそうしていた。日本語の訳文の方が原文よりも長くなることが多く、その訳文を終えたところの上の行から次の原文を書き始めるので、原文同士の間に隙間ができる。もちろんその逆の場合には、原文が続いている中で、訳文と訳文の間に一定の隙間ができる。原文間、訳文間にできるそうした「すき間の違い」を眺め比較するのも学びになる。長い文の場合、読点(、)の使い方も大いに参考になる。

具体的には、まず原文をそのまま書き写して音読する。漠然とどう訳すのかなあとは考えるがこの作業の目的は「書き写す」ことにあるのであまり深く考えない。初めの頃は殴り書きしていたのだが、最近はなるべく丁寧に書くように心がけている(日本語訳も同じだ)。どの程度「丁寧に」かというと、手書きの原文を見た時に「ちゃんと読める」程度。その後、訳文を書き写す。ひらがなはひらがな、漢字は漢字、カタカナはカタカナをそのまま写すようにしている。こうすることで「あ、こういうときは漢字なんだ!」「カタカナや中黒(・)はこうつけるのか!」といった発見があって面白い。訳文を写し終えると、今いちど英語と訳文を音読する。自分の字が汚くて読めない時には本に戻ってその部分だけ書き直す。したがって1日1~2文しか進まない。しかしそれでよいと思っている。作業を「進める」ことが目的ではない。この作業に「取り組む」こと自身に意義があるのだ。

ボールペンは3色。普段は黒を使う。「お見事!」「これは今後使えるかも!?」と思った箇所は緑色で書く。「こんな訳は自分には絶対無理!!」は赤。原文にはないが読者の読みやすさを勘案して訳文にだけ書かれている箇所も赤。本当に重要だと思った箇所は赤丸で囲ったり、余白にメモしたり・・・と試験勉強の時の参考書への書き込みのようなかんじになります。

写経を始めた頃は、「どうしてこんな訳語が生まれるのだろう?」という勉強の意味合いと「素晴らしい日本語の訳文を少しでもマネできれば」と思って始めたのが、ここ数カ月はこれまでと違う気づきがあった。

翻訳が自然な日本語かどうかを決めるのは、①英語の理解と訳語の選択もさることながら、特に長い文の場合、②語順、特に副詞句や形容詞句をどの位置に置くか、それに対して主語または主節をどう配置するか(配置しないか)がかなり重要だ、ということは翻訳者ならだれでも知っていると思うが、最近、写経がその重要な訓練になることに気がついたのだ。

写経(原文と優れた訳文の書き写し)の大きな利点としては②が挙げられると思う。1文の原文を書き写して、それに相当する日本語を書き写し、5,6回読んで配置をよく比較することで学ぶことが本当に多いのだ。

同業者の方にしか通じない話でしょうが重要だと思うのでここに書き留めておきます。写経についてはこのブログでも何度も書いてきたのでご興味のある方はどうぞ(添付した古い記事はその時々で経験、感想、反省、結論または仮説です)。

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「失われた1世代」-オンライン英会話のレッスンから

フィリピン人の先生方の大半は、日本人がリッチで安全な国で暮らしていると思っているので、最近はその「誤解」を解くためにいろいろ説明していると、大いに驚かれることが多い(オンライン英会話の教材ではよく貧困問題が取り上げられるのだ)。

その例として僕がよく紹介するのがこのトレーラーだ。これを見ながら「これは極端な一面ではあるが、日本におけるinvisible poverty(見えない貧困)はかなり深刻なのだ。その背景として・・・」と終戦後からの高度経済成長と「ジャパンアズナンバー1」に浮かれてバブル時代に入った話や、それが崩壊して「失われた十年」「失われた二十年」「失われた三十年」を経て、先週日経平均が35年ぶりに史上最高値を更新し、いまやこの35年間を「失われた1世代」という人もいる。今の若い人たちが将来に希望を持ちにくくなって少子高齢化が一段と進んでいる一因もこういうところにあると思う、と話すと

「今の日本が厳しいとは生徒たちに聞いて知っていたけど、その背景まで含めたこんな話を聞いたのは初めてだ」と結構感動される。 

「そりゃそうかも。あなた方の生徒さんはあなた方と同世代かそれより小さい小中学生だろ?多くの日本人が『21世紀は日本の時代』と浮かれていたこともあったんだよ・・・ちなみにそれって僕の世代、つまりあなた方のお父さんやお母さんの世代なんだ」「へ~」

とまあ、テキストから離れてこんな話をしていると30分ぐらいはすぐ過ぎてレッスンが終わる。

お気に入りの先生にこの話をする。「万引き家族」のトレーラーももう何回見せたろう。

で、昨日の先生にこう言ったんだ。「次は君たちの世代、君たちの国の時代なんだ」

 

 

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翻訳方向のグローバルスタンダードが変わるかも(2024年3月6日)

翻訳は元来、外国語を自国語に訳すことがグローバルスタンダードであった。その理由は、表現力の面で自国語の語彙が圧倒的に豊富であるため、と僕は理解しているのだが(もっとも、日英は例外とされてきた。日本語の語彙や文法構造が英米語とあまりに異なるため、ソース言語としての日本語を理解できる英米人が非常に少なかったためである)、AI技術の発展により、外国語と自国語の表現力の差は著しく縮小する。そうなると、翻訳における原文理解の重要性がかなり高まっていくのではないか?究極的には、

①ソース言語が母語、ターゲット言語が外国語の場合は、まずAIに原文をターゲット言語へ翻訳させた後、人がターゲット言語を解釈しながら調整/調整していき、最後の仕上げ(語句のチェック)をAIに任せる。

②ソース言語が外国語、ターゲット言語が母語の場合は、まず人が原文を理解した上で訳文を作成する。原文の理解を鮮明にするために、必要に応じてAIの助けを借りて表現の引き出しを広げる場合はあるが、表現の微調整と仕上げはあくまで人。

という形にするのが最も品質のよい翻訳を短時間で仕上げるベストな方法になると思われる。さてこの場合、表現の引き出しがAIを駆使して縦横無尽にできるようになった時に最も重要な要素は何か?それは原文(ソース言語)の理解ではないだろうか。

だとしたら、生成AIを使う翻訳を前提とした場合のグローバルスタンダードは、母語に訳す方ではなくて、外国語に訳す方になっていくのではないかな。なぜならば、ソース言語は外国語の場合よりも母語の方が原文への理解度がはるかに高いから。

このことを英語と日本語に当てはめれば、今後は日英翻訳を日本人が、英日翻訳を英語ネイティブが手掛けた方がよいということになる。

グローバル・スタンダードが変わっていくのではないだろうか?

以上はあくまでも僕の仮説とそれに基づく予想です。

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消費者の立場から参考書の出版社と書店に望むこと

様々な英語参考書を利用している立場から見ると、出版社や書店の皆さんは、新しい本をつくる暇があったら、これまで出たもののの中で良質なものを探す/編集し直す/勉強の仕方を提示するなど付加価値を高める努力をした方が生産性がはるかに高いと思う。小説やエッセイや漫画じゃないんだから。

たとえば英文解釈の参考書って、消費者がそれに費やす時間で言うと、小説やノンフィクションといった読み物と辞書と中間に位置していると思うがどうだろう。

参考書1冊を勉強する時間は、読み終えるまで数日から数週間の小説やノンフィクションよりはずっと長いはずだし、一方数年から場合によっては一生持ち続ける辞書よりははるかに短い。学習者がまじめに取り組んで数カ月から1年ぐらいと想定できるのではないか(僕のように、1日当たり10~15分で数日に1回という使い方は例外)? だったらそれなりの売り方あるよな~とNHK土曜ドラマ舟を編む」を見ながらふと思った。

消費者が学習書に求めるのは、よい素材と優れた勉強法の提示なのね。出版社の枠を超えて取り組める工夫はいくらでもあると思う、出版社にも、書店にも。ときたま訪ねる大手書店の参考書の棚を見ていると「自分の仕事を作るための本づくり」はやめてほしいと感じることが最近多い。それでは生産性のない「でもしか」公務員と同じだろ。

例えば、研究社に一定の著作権料を払って『英文解釈教室』の英語原文だけをそのまま使って解説の内容を全部書き換えて「異説『英文解釈教室』」つくっちゃだめなの?もっとも原文の著作権についてのチェックはする必要があるかもしれんけど。そういうこと誰か考えてくんないかなあ。

大人向け教養書としての英文解釈本という位置づけ

僕が大手書店員なら、山崎竜成著『知られざる英語の「素顔」-- 入試問題が教えてくれた言語事実 47』(プレイス)と今井亮一・平沢慎也著『スローでディープな英文精読』(研究社)に、「受験勉強に飽き足らない『大人』の皆様へ」というポップをつけて山川出版社の『日本史』『世界史』の横に並べる。

両書をそう捉え直すと、「前書き」では、著者等が①なぜ本書を出したのか②誰(どういう学力の、何を目指している、あるいはどんな職業の人)向けの本なのか、③それぞれの例文をなぜ、どういう基準で選んだのか(特に『スローで・・・』の例文の選定には筆者らの意思を感じるので、それを明らかにしてほしい)④具体的にどう読み、勉強を進めてほしいのかについて、紙数をたっぷり割いて書けるのではないか。

そういう著者らの、明確な「思い」が示されれば、たとえば『スローで・・・』の場合、脱線にこそ本書の本領が発揮される。いくら脱線しても読者は喜んでついてくると思う。

 

「翻訳を読むのは何か損をした気がしてしまうのだ」柴田元幸さん(2月29日に出会った言葉)

(1)2020年2月29日 
翻訳を読むのは何か損をした気がしてしまうのだ。
柴田元幸著『僕は翻訳についてこう考えています 柴田元幸の意見100』アルク社、p156)
本日の言葉:同業者の方には思わず頷いてしまう文章ではないかな。ただ、僕は「将来はどうせ英語が読めるようになるし、他の言語もできるようになっているはずなので」という安易な、というか無鉄砲な理由で高校2年の時に翻訳書を読まないと決めて以来、基本的には翻訳書を読んでおりません(で、結局英語もそれほど読めるようにはならず、英語以外ではドイツ語を少しかじっただけで終わった)。

この仕事についてからは、読書会等での課題図書になるときを除き、勉強で読む以外で翻訳書を読むことはまずない。例外は『さゆり』で、翻訳ストレッチで少しずつ原文と訳文を学んでいたら、内容があまりにも面白くなって結局訳書を読んで終わった(恥)。
そういう意味で僕は、知的な見栄が災いしてこのまま翻訳書の楽しみを知らずに終わるのかもしれない。