毎日家の中を掃除し、洗濯して洗濯物を干し、目玉焼きを焼く(これが僕の毎日していた唯一の「料理」)という新たな家事を2週間ほど続けて気づいたのは、慣れない家事を続けるうちに、最初は「もっと効率的にできないか?」と考え始め、それに慣れてくると、「もっと良く(高品質に)できないか?」と工夫を始める自分の姿だった。
昨日、洗濯を終えた妻がこう言ってきて驚いた。「お父さんの柔軟剤の使い方は私よりも良いと思う。フワッと仕上がっているのよ。やっぱり私、いつの間にか『やり方』が決まっちゃって、柔軟剤の量が少なくなってたのかも」。僕はただ妻から言われた指示通り、メモを読みながら動いていただけなのだが、振り返ってみると、洗濯と乾燥が終わった後のタオル(うちはフェイスタオルのみ乾燥機にかけている)を畳むときに、「ああ、気持ちいい」と感じるような柔軟剤の量に自然と調節していたような気もする。
しかしその一方で、こんな事実にも気づいた。実は僕はこの10年近く、毎朝のトイレ掃除と夕方の風呂掃除を続けているのだが、こうした「工夫」を考えることはもうなくなっている。おそらく、どちらも「ルーティン化」してしまったからだろう。ルーティン化するということは、作業が無意識化することであり、それは試行錯誤の結果として得られた「効率化」の結晶という側面もあるかもしれない。しかしその代償として、知らず知らずのうちに「手抜き」してしまう作業や場所が生まれている可能性も否めない。
他人の家に行くと、ちょっとした汚れや整頓されていない箇所が気になることがあるけれど、それはその家の人がサボっているからではなく、例えば掃除がルーティン化してしまったために、「決まった箇所が手抜き状態」になっているだけかもしれない。ドラマなどで姑が息子夫婦の家を訪ねて、戸棚の上を指で拭って埃を確認するシーンが昔はよくあったけれど(そして多くの場合、そんな何気ない仕草や一言が嫁姑バトルにつながっていくわけですが)、あれも同じことなのかもしれない。
...なんてことを考えていたら、「お父さ~ん、目玉焼きお願いしていい?」と妻の声がした。僕が生成AIに教えてもらった方法で目玉焼きを作ったらおいしくできたという自慢話(!)をしたので、「じゃ、今日はお父さんが…」となったわけだ。目玉焼きは、ようやくメモを読まずに仕上げられるレベルなんです。さて、どうなるかな?