日本経済新聞の名物連載「私の履歴書」は、毎月欠かさず読んでいる連載のひとつである。だが正直に言えば、サラリーマン出身者の回では、期待を裏切られることが少なくない。
その理由は、物語がサラリーマンにとっての最大の関心事である「人事」――言い換えれば「組織内での立身出世」に収斂してしまうからである。どの部署に配属され、どの役職に就き、どのタイミングで昇進したか──語られるのは、決められた箱の中での人生すごろくの軌跡ばかりだ。人生の偶然や選択の迷い、人事をめぐる喜びや怒り、嫉妬といった人間臭い感情、そして判断の重さは、きれいに削ぎ落とされていく。
そこに、自分の会社や業界が置かれていた当時のマクロ環境を添えれば一丁上がりだ。
だがそれでは、予定調和の域を出ない。
しかし、その中で例外的に面白かったのが、ソニー元社長・平井一夫さんの「私の履歴書」だった。同じサラリーマンでありながら、なぜこれほど印象が違ったのか。
私なりの答えはこうだ。大半の「立身出世型私の履歴書」には、サラリーマンにとって最大の関心事でありながら自分でコントロールできない「自分の人事」に対する視点がないからだ。
自分はどの部署で何をしたかったのか(したくなかったのか)。どんな配置を与えられ、どんな評価を受けたのか。師匠やライバルは誰だったのか?与えられたポジションについて何を考え、どう行動したのか。平井さんの文章にはそれがあった。その葛藤と選択と結果がきちんと描かれていた。
一方、多くの「私の履歴書」には、その部分がほとんどない。あるのは結果としての肩書きや異動の列挙だけで、「考え」や「意思」が見えてこない。
人の履歴(書)が面白くなるのは、成功したからだけではない。コントロールできない状況に対して、どう向き合ったかが語られるときだろう。俳優や小説家、ミュージシャン(先月の財津和夫さんの履歴書は最高傑作のひとつだった)、スポーツ選手(9月の岡田武史さんの回も実に面白かった)、そしてたたき上げの政治家や創業社長の履歴書がワクワクするのは、彼らの職業そのものが選択と葛藤の連続だからだ。一方、サラリーマンはそれを語らなくても物語の体裁が整ってしまう。だからこそ、意識的に語る必要がある。
サラリーマンの「私の履歴書」が退屈になるか、読み応えのある人生記になるか。その分かれ目は、まさにそこにあるのだと思う。