金融翻訳者の日記/A Translator's Ledger

自営業者として独立して十数年の翻訳者が綴る日々の活動記録と雑感。

「文章は、果たして、修行すれば上手く書けるものだろうか?」高峰峰子さん:12月14日に出会った言葉

(1)2019年12月14日  
「ああ、この映画は50年かけてつくったんだということだね」 山田洋次さん
(「寛容さ失った50年『寅さんが生きづらい時代に―男はつらいよ お帰り寅さん』山田洋次監督に聞く」2019年12月14日付日本経済新聞最終面)
*引用句の前。「寅さんがヒットしていたころの映画館は騒々しくてね。たばこや酒のにおいはする……『いいぞ!』なんて叫んだり、グーグー寝てたり。僕はそういう雰囲気で見てほしいと思う」。

僕は結婚33年になります。こういう時代に、上野の映画館に2人で寅さんを見てラーメンを食べて新幹線で帰る、なんてことが何度もあった。趣味も価値観もかなり異なる2人ではありますが、唯一といってよいほど「合った」のは寅さん映画が好きだ、ということ。全作品を1.5回ぐらい見てます。

考えてみれば「映画」に限らず、夫婦だって親子だって家族だって、あるいは僕という個人だって、それだけの時間を使ってできてきたんだなあ、と当たり前のことながら、引用句を見てしみじみ思いました。「カツベン」(今週見にいく予定)と合わせ、この冬に楽しみにしている映画の1つ。

(2)2018年12月14日 
  文章は、果たして、修行すれば上手く書けるものだろうか? 私は、その人間の生きかたと環境が書かせるものではないか、とおもう。なぜなら、物質、精神、共に裕福に生まれてきた人の文章にはおのずとおおらかなゆとりが感じられ、日との顔色をうかがいながらシコシコケチケチと生きた人間の文章はつねに貧しくみみっちい。文章は人間そのものだ。たとえば、私が自分の拙い文章にイヤ気がさして、もうちょっと上品な文章を、と気取ってみたところで、それはしょせん、他人の文章の猿マネで、自分自身は無ということになる。
  因果応報とはよく言ったものである。
(高峰峰子「因果応報」週刊朝日編『私の文章修行』朝日選書p20)

(3)2017年12月14日
体験せずとも思いをはせることが、本当はできるはずだ。
(2017年12月14日日付朝日新聞天声人語」より)