金融翻訳者の日記/A Translator's Ledger

自営業者として独立して十数年の翻訳者が綴る日々の活動記録と雑感。

翻訳工程を設計する(2026年8月31日)

  勉強会の仲間でもあるゼミの先輩から、昨日公開したジャクソンホール講演の試訳(暫定訳)について、次のようなご質問をいただいた。

「文中に挿入されている解説もAIによる自動生成でしょうか。」

  答えはYesだ。ただし、「AIに全文を訳させ、AIに解説も付けさせて、そのまま掲載した」ということではない。

今回採った手順
まず、無料のCopilotに、僕が作った「翻訳生成用プロンプト」を与えて全訳を作らせた。次に、その原文とCopilot訳をChatGPT-5.6 SolとClaude Opus5に渡して評価させる。一方が修正を提案すれば、その内容をもう一方に見せて再評価させる。さらにその回答を再び相手方に渡す。今回、この作業を12回、つまり6往復ほど繰り返した。僕自身は途中の議論を逐一読んで、「ここはChatGPTが正しい」「この点ではClaudeを採用しよう」と裁定するようなことはしていない。

つい数日前、日本語の「奥床しい」をどう英語にするかを生成AIと検討したときには、僕自身が議論の中にかなり深く入った。どの候補が原文の意味に近いか、どの表現が英語として自然か、なぜこの案ではいけないのか。そうした論点を僕自身も考え、AIの説明に反論し、必要なら別案も提示した。

今回はそれとはかなり違うやり方をした。昨日の正午過ぎに最初のプロンプトを打ち込んでから、解説を含む訳文が出来上がるまでにかかった時間は、およそ3時間である。速報性を優先した。記事に「仮訳」と付したのは、そのためだ。

ChatGPTの評価をClaudeに渡し、Claudeの反論をChatGPTに渡し、その再反論をまたClaudeに戻す。かなり機械的に、この往復を続けた。僕が一つ一つの論点を吟味して裁定するのではなく、両者の相違点がどこまで減ったかを見る。まだ違いがあれば、もう一度相手に渡す。やがて相違点が2、3か所ほどに減り、それもさらに往復させるうちに、ほぼなくなった。

そして、その段階になって初めて、僕は主に訳文を、必要に応じて原文を確認しながら最初から最後まで通して読んだ。

普通の翻訳なら、翻訳者は第一文から自分で判断を重ねていく。今回の僕はそうではない。前半では、個々の訳語や構文についてほとんど判断していない。一方のAIに仮説を出させ、もう一方に反証させ、その反証をさらに反証させる。両者の差異がなくなるところまで回した後で、人間が成果物全体を検査する。そういう手順をとった。

なぜ前半で黙ったのか

第一の理由は、身も蓋もないが「時間」である。昨日の午後にふと思いつき、できるだけ早く、できれば日本時間の月曜日の始業前に出せば、どなたかの何らかの役に立つかもしれないと思った。思い込みだったかもしれないが、とにかく短時間で仕上げようとしたため、一つ一つの論点を吟味している余裕がなかった。「奥床しい」のときとの一番の違いはそこであって、最初から立派な方法論があったわけではない。

ただ、終わってから振り返ると、この横着は「結果オーライ」ではなかったかという気もする。

僕は以前から、生成AIを使う際の「追随バイアス」と「忖度バイアス」を区別して考えてきた。追随バイアスは、先に与えられた判断や結論を所与のものとして受け入れ、それを前提に回答を組み立ててしまう傾向である。忖度バイアスは、ユーザーの期待や意向に沿う方向へ、評価そのものが歪む傾向を指す。似ているが、前者は前提の問題であり、後者は評価の問題である。

前半で僕が個々の翻訳判断に口を出さなかったことは、結果として、少なくとも僕に対する追随バイアスと忖度バイアスを抑えることにはなっていた。僕が裁定者として入り込むほど、僕自身の判断がその後の議論の前提になってしまう。時間がないから黙っていたのだが、黙っていた方がよい理由も、実はあったわけだ。

ただし、追随バイアスそのものがなくなったわけではない。ChatGPTの判断をClaudeに見せ、Claudeの判断をChatGPTに見せている以上、AI同士が相手の先行判断に引きずられる可能性は依然として残っている。

一方、これとは別に、最初から意図してやったこともある。生成AIの「自己正当化バイアス」とでも呼ぶべき傾向が、以前から気になっていたので、それを極力排除したいと思ったのだ。AI自身に訳を作らせ、その直後に「この訳に問題はないか」と聞くと、AIは自分が出した訳を擁護する方向に理由を組み立てることがあるように見える。もちろん、AIが人間のように自尊心を持ち、自説に固執しているという意味ではない。しかし、自分が直前に生成した文章を前提に、それと整合する説明を後から作る傾向があるならば、翻訳チェックでは無視できない。実は「奥床しい」の時は翻訳を最初にChatGPTにさせ、その後Claudeとの相互評価に入らせていた。そこで今回は、「訳を作る役」と「評価する役」を分けることにした。Copilotに初訳を作らせ、ChatGPTとClaudeにそれを批判させる。さらに、その批判同士もぶつける。ここだけは、急いでいても省くつもりはなかった。

収束は正しさの根拠ではない
もちろん、複数のAIを使えば、その分だけ正確になると考えるのは危険だ。ChatGPT、Claude、Copilotの判断が一致したからといって、それを三人の独立した専門家の一致と同じようには扱えない。三者とも大量の言語データから学習している以上、学習データには相当の重なりがあるだろうし、「自然な英語とは何か」「よい翻訳とは何か」といった規範にも共通部分があるはずだからである。三者が同じところで、同じように間違える可能性がある。

ただし、それは人間についても同じことが言えるのではないか。同じ教育を受け、同じ辞書や文法書を参照し、同じ業界の慣行の中で仕事をしている複数の翻訳者が、独立に同じ判断をしたからといって、それだけでその判断が正しいとは限らない。「全員が間違っていた」ということは十分あり得るわけだ。AIの場合には、その「独立性の弱さ」がより見えにくいということなのだろう。

そうすると、当然の疑問が出てくる。一致を正しさの根拠にできないと言いながら、僕は相違がなくなったところで往復を止めているではないか、と。その通り。収束は正しさの基準ではなく、単なる停止条件にすぎない。これ以上往復させても新しい論点が出てこなくなった、という以上の意味はないのである。だからこそ、その後で人間が全文を通して読む必要がある。相違が消えたから正しい、ということにはならない。だからこその「仮訳」なのだ。

 

欲しいのは多数決ではなく、棄却の理由

大切なのは多数決ではない。ChatGPTとClaudeが同じ結論に達したという事実そのものよりも、途中でどこが食い違い、なぜ一方の候補が消えていったのかの方が重要だと僕は考えている。

ある訳について一方が「この訳では原文のニュアンスが消える」と指摘し、もう一方が「しかし、そのニュアンスをそのまま残すと日本語として不自然になる」と反論する。さらに「では、その意味を構文ではなく別の形で残せないか」という話になる。そうしたやり取りによって、候補が少しずつ絞られていく。

したがって、僕が欲しいのは「AI三者の多数決」ではなく、むしろ、なぜ別の候補が棄却されたのか、という理由である。最終的な一致そのものよりも、その一致に至るまでにどの案がどんな理由で落ちたのか。その記録の方が、翻訳判断を検証する材料として価値があるのではないかと思っている。

解説はどう作ったのか

では、冒頭の質問にあった「解説」はどう作ったのか。

訳文がおおむね固まったあと、それまでのChatGPTとClaudeのやり取りをすべて残した状態で、「以上のやり取りをすべて踏まえて、必要だと判断した箇所には解説を入れよ」と指示した。すると、それまで議論になったところを中心に、解説付きの訳文が出来上がる。

ただし、そこから先は僕自身がかなり介入した。出来上がったものを最初から最後まで読み、「この解説は不要ではないか」「この解説はこう直した方がよくないか」「ここには逆に解説が必要ではないか」と随時問い返していった。必要なら削る。必要なら書き直させる。必要なら新しい解説を加えさせる。

つまり今回の作業は、大きく二つの段階に分かれていた。前半では、僕は個々の翻訳判断にはほとんど介入せず、AI同士の相互評価を回した。後半では、その結果として出来上がった訳文と解説を、僕自身が最初から最後まで検査した。

少し奇妙な指揮者
ここで想起されるのは、山田優先生の言葉である。先生は座談会「AI時代に考える翻訳のこれから」(『三田評論』、2026年8月)で、これからの翻訳者を「オーケストレーター」と表現しておられた。「これからの翻訳者は自分で翻訳しないでAIにプロンプトを書いてOKと思えばいい」という趣旨である。そしてその直後に、「指揮者って楽器をやったことない人が本当に指揮者になれるのか」と問い、自分で実際に翻訳した経験があることが、AIを使って翻訳する仕事にもつながってくるのではないか、と述べている。

今回の作業を振り返ると、この「指揮者」という比喩が以前より具体的に感じられる。ただ、僕は翻訳中ずっと、「この表現をもう少し弱く」「ここはニュアンスを抑えて」と指示していたわけではない。途中では、むしろほとんど黙っていた。

しかし、これは指揮者をやめたということではないのだろう。オーケストラには分奏(セクションごとの練習)がある。指揮者はその練習の場に張りついてはいない。任せておいて、まとまってから全体を聴く。今回やったのは、それに近い。

そう考えると、指揮の仕事が消えたのではなく、本番前に前倒しされたのだと言える。「奥床しい」のときは演奏中に注文をつけていた。今回は、それを事前に渡しておいた。翻訳生成用プロンプトとチェック用プロンプトが、その「あらかじめ与えた解釈」に当たる。演奏中に黙っていられたのは、先に渡してあったからだ、と(自らに都合よく?)解釈したわけだ。

しかも、人間が介入するのが個々の判断のレベルではなく、成果物全体のレベルだという構造も似ている。指揮者は分奏の一音ずつを裁定しない。まとまってから、全体を聴いて判断する。

ただし、一点だけ違う。「まとまった」と誰が判断するのか、である。

今回の僕は、ChatGPTとClaudeの相違点がほぼなくなったことを合図に往復を止めた。しかし、相違が消えたからといって、本当に妥当な訳に到達したとは限らない。論点が出尽くしただけかもしれないし、一方が他方の判断に追随して収束した可能性もある。そこは認める。

では、これは誰の翻訳なのか
今回出来上がった訳文には、「この一文は僕が書いた」と言えるものはほとんどない。解説も、文章そのものの大半は生成AIが書いた。それでも、最終的な訳文と解説は僕の指示のもとで作られ、僕が全文を確認し、僕の名前で公開している。

では、これは誰の翻訳なのだろう。

いまのところの僕の答えはこうだ。今回の僕は、一文一文を訳す人ではなく、翻訳が生成され、批判され、修正される工程そのものを設計した人であり、同時に、その工程から出てきた成果物を検査し、発表できるかどうかを判断した人である。その意味で、これは「僕の翻訳だ」と言ってよいと思う。

ただし、この答えで十分なのかどうか。「実際に文章を書いた者が翻訳者である」という考え方を捨てるなら、何をもってその翻訳を自分のものとし、その責任を引き受ける根拠とするのか。設計と検査だけで名前を出してよいのか。そこはまだ、自分でも詰め切れていない。

一文一文を自分で訳すことが翻訳者の仕事ではなくなったとき、翻訳者には何が残るのか。

今回のジャクソンホール講演の全訳は、その問いを考えるための一つの実験だった。

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