先日、100年以上前(正確には115年前)に書かれたおよそ5000ワードの哲学論文を、複数の生成AIの助けを借りて翻訳した。かかった時間はわずか100時間。近々発表する予定だ。僕はこの体験を通じて、AI翻訳における「理解」の本質を、身をもって知ることになった。
生成AIが登場する以前の機械翻訳――いわゆるニューラル機械翻訳(NMT)――は、言語上の対応関係のみに基づいてプログラムが構築されていた。技術の進展により語彙精度や文脈把握力は向上し、誤訳は減ったものの、それでも機械翻訳が人間を超えることはないと僕は思っていた。出力された訳文は使いものにならず、大幅な修正を強いられ、そんなことをするくらいなら自分で訳した方が速い――そう感じていた。
ところが、生成AI翻訳はその常識を打ち破った。当初は好奇心から使い始めただけだったが、使い込むうちにその"柔軟さ"の理由が見えてきた。生成AIは辞書的対応に頼らず、膨大な自然文――書籍、会話、論文など――をもとに翻訳を生成する。つまり、私たちが文章を理解するときに働かせている背景知識――経験や文化、社会的文脈を通じて形成される「スキーマ」――を参照する構造を持っている。もちろん、時にハルシネーションや混乱を起こすが、その思考の枠組みは人間的ですらある。
この違いは決定的だ。NMTは文脈は読めてもスキーマを利用できない。一方、生成AIは文脈のみならずスキーマを活用する。
このことを、西林克彦著『わかったつもり――読解力がつかない本当の原因』を読みながら、あらためて確信した。そして今回の翻訳体験を通じて、AIと人間が共有する"理解"という営みのあり方そのものを、私たちはいま、もう一度問われているのだと実感した。
どんなに多くの辞書を使っても、どんなに優れたNMT翻訳ソフトを使っても、あの論文をこれだけの短時間で、これほど正確に訳すことはできなかっただろう。生成AIは、100年前の社会背景や当時の議論の枠組み、そして著者の意図を――まるで理解しているかのように――再構築してみせた。いや、正確に言えば、一読者(そして翻訳者)である僕が理解するのに十分な材料を提供してくれた、というべきかもしれない。
もはや、NMT翻訳とAI翻訳のどちらが優れているかを競う時代は終わった。私たち翻訳者は、AIを単なるツールとして使うのではなく、"理解"という営みの構造そのものを問い直す契機として向き合うべきなのかもしれない。