金融翻訳者の日記/A Translator's Ledger

自営業者として独立して十数年の翻訳者が綴る日々の活動記録と雑感。

「索引がない本は本ではない」(野口悠紀雄さん)を解決する一提案:原注をURLに載せて、索引を紙にする

今、ある書籍を訳しており、知識の補完のために6冊の書籍を並行して読み進めている。そのうちの4冊が翻訳書なのだが、それらを日々代わる代わる読みながら痛切に感じることがある。

日本の一般読者にとって、翻訳書の原注と索引はどちらが大事なのだろうか?ということだ。

私が今訳している本も、出版社からの指示では「索引(Index)」は翻訳対象外になっている。原文の索引が、そこに出ている原文の項目をそのまま訳しただけでは日本語の索引にはならないこと、編集者(または翻訳者)にかなりの作業になることはよく理解できる(僕も直近に出してもらった本は索引の作成作業のお手伝いをした)。

「索引がない本は本ではない」(野口悠紀雄さん。『「超」創造法 生成AIで知的活動はどう変わる? (幻冬舎新書 705) 』

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ここまで言い切った野口先生に敬意を表する。まさにその通りだと思う。特にノンフィクションの場合、索引(特に事項索引と人名(社名)索引)があるかないかで、本に対する理解度が決定的に変わってくる。「本ではない」は言い過ぎとしても、「致命的だ」とは思う。

その一方で、書籍の末尾に何ページも続く「原注」は翻訳対象で、まず省略されることはない。これもまた当然だ。原注は引用文の出所や参考文献やURLを示す非常に重要なものであり、特に研究者にとってはなくてはならない情報源で、これを抜かすことは考えにくい。

しかしちょっと待ってほしい。原注のほとんどは「原文のママ」だ。一般読者はそれを読むだろうか?原注に使うページ数を索引に使った方が一般読者にはずっと役立つのではないか?

どちらも重要で、一般読者にはむしろ索引があった方がよいが、研究者にとっては原注がないのは困る。では、どうするか?

その解決策は、「原注をURLに載せて、索引を紙にする」と思うが、いかがだろう?