今回必要があって(また興味もあったので、自ら申し出て)複数の機械翻訳のお試し版を使いながら1本の記事(雑誌4ページ分程度)を訳しみた。その結果、今後もしこういう作業、つまり「ポストエディット」が仕事の中心になっていくと、おそらく自分の英語力は着実に落ちていくと思った。
いや僕だけではない。これから機械翻訳がどんどん進歩しその用途が広がれば広がるほど、人が英語を直接理解したり訳したりする必要性が減るわけだから、その分だけ我々翻訳者はもちろん、一般人の英語の読み書き(将来は話す)能力が落ちていくだろう。
どんな道具でも、便利になった分だけ人間の「その部分の」能力が落ちるのは当然だ。それを翻訳に当てはめて考えると、そのうち人々は諸外国後を運用できなくてもよい時代が来てしまい、外国語を自ら読み書き(話すことの)できる人は、単なる「趣味人」として扱われる時代が来るのかもしれない。そういうことを今回の一連の作業を通じて感じた。
もちろん「ポストエディット」とはAIの作り出した翻訳結果を元にした翻訳なのだから、人がその作業を通じて学べる技術や能力もあるとは思う。その道の専門家も出てくるだろう。今後はそういう人たちが「翻訳者」と言われるようになるのかのかもしれない。しかしそこで必要とされる能力は英語そのものの運用能力や我々が知っている「翻訳力」とは似て非なるものなのだ。今回の経験でそれを実感した。こういう世の中の流れは怖いし、寂しいと思った。
もっとも僕のこういう嘆きというか感慨は、無声映画からトーキー映画に変わりつつあった時代の活動弁士の心情と同じかも。
古いんだね。
(参考)