(1)昨年の今日
(翻訳とは)言語を前提にした文化の境を超えようとする時点で置いていかなければならない荷物と、理解を得るために肩の上に積まなければならない荷物とがあって、そのやり取りの過程で大切な旅人=原文が無事に向こう側へ渡れるかどうかが決まります。
(ロバート・キャンベル著『井上陽水英訳詩集』(講談社)p175)
*こちら側に届いてから「理解を得るために肩の上に『さらに』積まなければならない『新たな』荷物」もあるのではないか、と思いながら引用文を読みました。実は引用文の前でキャンベルさんはこうも言っている。「英語で読む陽水さんの詞には、日本語だけで聴き、あるいは読む場合に思い浮かべる景色とは異なるものがあります」(同書p175)。
「翻訳とは、原文を読んだ景色と訳文を読んだ景色が同じようになるように言葉を移し替える行為」とは翻訳教室や授業でよく教えられることで、僕も概ねそう思っているけれど、キャンベルさんはそれとは相反することをここで言っている。本書で取り上げられているのは井上陽水さんの歌詞、つまり音楽が前提となっている詩なので、単純比較はできないかもしれないけれども、「(どんなに努力しても)原文と翻訳が同じ景色になるはずがない」というキャンベルさんの主張(と僕は理解した)は、ではなぜ、何を翻訳するのか、という点も含めもっとよく考える必要があると思った。
(2)2年前の今日
苦しみは山頂の一歩手前 料理人・米田肇さん
(NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀 至高の“点”ここに極まれり」2019年10月1日放送)
*必死になってもの作りをしている人の言葉。新しい料理のアイデアが浮かばず死のうかと思い詰めた(けれど死ねなかった)後にアイデアが思いついたことがあって、それ以来、どんなに苦しくても「山頂の一歩手前なんだ」と思って気が楽になったとのこと。道を究めた人の意見なので重いし、僕も見習いたいと思う。ただ番組を見ていて、あまりの必死さに「遊びのない方」かも、という印象が残った。演出上そうつくっただけかも知れないけれど。
(3)3年前の今日
「あなたは、違う。だから、いいんだ」岩城けい
(「折々のことば」2018年10月14日付朝日新聞)
(4)4年前の今日
店をやっていると、そこで売れる本が良い本に見えてくる。だから駄目なんだ。自分が欲しい本、買いたい本をどれだけ持っているかが全てだ。
(『古本の時間』内堀弘 (晶文社)p36)