金融翻訳者の日記/A Translator's Ledger

自営業者として独立して十数年の翻訳者が綴る日々の活動記録と雑感。

今でもこんなゼミあり(2020年1月)。

卒業を控えた息子がスマホから次のような内容の「ゼミ案内」を見せてくれた。1学年↓の(今度4年生になる)ゼミ志願生向けのメッセージである。

(ここから)
Nゼミの入室に当たっては次の2項目の順守を条件とするので、志望する学生はよくよく考えてから申し込むこと。
1.「毎週1時間程度のプレゼンテーションの準備ができること」
2.「『頭がおかしくなるんじゃないか』と思えるぐらい数学に没頭できること」
(ここまで)

「お父さん、N先生、今度の4年生にはこういう条件を出したんだって」
「お前の時はどうだったの?」
「1はあった。お父さん、『毎週1時間程度のプレゼン?ありえない。ゼミテン4人だろ、1カ月に1度が関の山だろ』って言ってたよね」

・・・実際は「毎週」であることが後に(学期が始まってから)判明する。

息子の場合は一人で自分の課題(一人ずつ教科書を先生と相談して決めて、毎回決められた範囲について解説する)についてプレゼンすることが義務づけられていた。
しかも「1時間」とは発表時間のことで、その後質疑応答の時間が30分ぐらい続く。そして質問するのは、事実上教授一人なのである。ゼミテンは4人だから、つまりゼミの日は朝9時から昼食を挟んで午後5時~6時になる事態となった。

「・・・・そうだった、アレはお父さんが甘かった。この時代にまさか、そんなゼミがあるとは・・・」

「僕だってわかってたら入ってなかったよー」

ちなみに彼は3年生までで他の単位はすべて取得済みなので、4年生の1年間は「たった一コマ」になるはずだった。楽勝で就活とバイトの予定だったのだ。
・・・はずなのに。その1週間にたった「一コマ」(が丸一日かかる)のために丸3日は準備し、前々日に同学年の仲間で互いに発表会で想定問答対策。前日は大学院生に時間を取ってもらって疑問点をぶつけ、その日の晩は資料の作成で朝4時まで。8時に起床して学校へ。というとんでもない1年間を過ごしてきたのである。

そして、当然N教授は「いつもニコニコ楽しいおじさん」ではなく、
N教授「・・・で、その根拠は?」学生「ええっと、それは・・・・」(沈黙のまま15分。だれも助け船を出せない)という針のむしろの90分なのだ。

「ほとんどの友達のゼミは、1カ月に1回、人によっては2カ月に1回でいいんだよ」

で、なぜか次男のゼミ「だけ」、数学科の全教授の前で一人一人「卒業研究の発表会」があるんだと。内容はこの1年間学生がそれぞれ取り組んできたプレゼンの要約。何でもN先生の趣味、というか方針なんだとか。

「なるほど~、で、上の2条件か。しかしこれじゃもう入ってくる学生いないだろう」
「それがさ、もう応募者がいたんだってさ」
「・・・」

ちなみに、それでも「高校の部活(卓球部)に比べりゃ楽だった」そうです。

おしまい。

U高校ラグビー部に関するトリビア(2020年1月5日)

(その1)
「地理は5」
我が母校のラグビー部が全国ベスト16に入ったので、今はほとんど知られていない浦高ラグビー部に関するトリビアを1つ。

今はそんなことは許されないはずだし、当時(ほぼ45年ほど前)もその事実が確認されたわけではない。ただし、(当時の)浦高生には常識だった衝撃の(?)事実。

ラグビー部に入部すると地理は無条件に5」

これはほぼ公然の秘密だった。正確に言うと、ラグビー部顧問のF先生の地理Bを履修したラグビー部の部員は、名前さえ書けば5(5段階評価)、と言われていた。

当時の1年生は地理Bが必修で、9クラスのうち半分をF先生、半分をN先生が担当されていた。僕のクラスはN先生だったが、F先生のクラスだった友達の話だと、どうも本当だったらしい。

F先生って結構な変人で、試験も、例えば試験用紙はアメリカ大陸の白地図だけ。問題は「知っていることを全部書け」といった試験を出していたと聞いている。
しかも、そのことを彼は公言していた(らしい)。極めつけは、僕らが2年生の時の入試(つまり1学年下の)入試の時。

あるクラスの試験監督をしていたF先生は、30分ぐらい経つと(入学試験の時ですぞ!)、突然「我が校を受験している諸君らであれば、この程度の問題はもう終わって、見直しをしている頃だろう」と突然話し始めたというのだ。

唖然とする受験生を前に、彼はこうつつけた。「・・・諸君、晴れて浦高に合格したら、ラグビー部に入りたまえ。そうすれば私が担当する地理Bは無条件で5にする!」
まだ合格もしていない受験生に向かって、受かった後の部活勧誘を入学試験中に言うか~?!・・・とう話はとりあえず横に置き、F先生には一応理屈があって、「ラグビー部は普段から厳しい練習を重ねているのだから、せめて自分の担当する科目ぐらいは良い成績を・・・」だと。

だったらサッカー部はどうなの?野球部は・・・・他の部活だって同じじゃん・・・・、いやそもそも同じ地理Bを取っていてもN先生だったら不公平じゃん!・・・なーんて文句はでませんでしたなあ。また、たとえば当時のグリークラブ(合唱部)部員は、音楽は全員、3年間「5」でした(僕は部員だったから知っている)。だから、それぞれの部活の顧問は、公言しないまでも、それなりの手心を自分の担当科目に加えていたのかも。ただ、「ラグビー部だから、サッカー部だから体育は5」「グリークラブだから音楽は5」なら分かるんだけど、

ラグビー部だから地理は5

って何となく面白いでしょ?

当時の入試に内申点が関わることはなかったし、一芸入試もアドミッションオフィス方式もなかったので、そんな話を聞いても、「あははは~そうかも」で済んでいた。

実に牧歌的な高校生活でした。

(その2)部活紹介
入学式直後の部活紹介なんて、覚えていない方がほとんどかも。でも、ラグビー部の部活紹介は、ある意味強烈な印象が残った。

「それではラグビー部です」

という紹介でユニフォームと共に壇上に現れたラグビー部員数名が1年生に掲げたのは・・・

「浦高ラグビー部の今春の大学進学状況」

というタイトルの大きな模造紙。現役、浪人別の人数が、上から「T大、K大、TK大、H大、W大、K大・・・」と続く。

で、スピーチはたった一言。

「新入生の皆さん、一流大学への進学を希望するなら、是非ラグビー部へ!!!」
でおしまい。さっと模造紙を丸めて退出。その間1、2分。

あれって部活の伝統なんだろうか。ラグビー部は当時から(サッカー部と並んで)練習がキツいので有名でした。県内では強豪で、関東大会までは行ったが全国大会には届かないレベルだった。

・・・それだけ懸命に部活に取り組んでいたにもかかわらず、僕の知っている範囲で言うと、ラグビー部の友人たちは皆例外なく、真面目に授業に集中して、成績も良かったです。

「サラリーマンは、普段はイエスマンでいい」:12月22日に出会った言葉

出会った言葉:
「社長になってしばらくたつと知識がついて、いろいろなことに自分の考えを持つようになります。そうなると、自分の考えと同じことを言う人ばかりを評価するようになって、違う意見の人の話を聞かなくなる。それは仕方のないことです。しかし、そうなるということはよく覚えておいてください」。谷井昭雄さん(当時パナソニック相談役)
(澤部肇 私の履歴書「ロシア債 甘かった形だけの処分案 大先輩に社長の心得教わる」 2019年12月21日付日本経済新聞
*サラリーマン時代、僕は比較的自分の思ったことをなるべく誠実に相手に話すことをよしとするタイプで、上司に対しても間違っていると思ったことは間違っていると直言すべきだと信じて行動していたが、課長になりたての頃に別の部署の6年先輩と飲みに行った折、次のように諭された。

「僕は基本イエスマンだね」その言葉を聞いた僕は、それを言った人が人格識見ともにとても尊敬していただけにかなりビックリして、これはこの人に対する意識を改めなければならないと思って恐る恐る尋ねてみた。「ど、どうしてですか?」

「いいか、上司が判断に迷うことの大半ー8割ーはまず正しいと思っていい。ウチの役員だぞ。そこは軽く見ない。仮に僕と意見が異なっている部分があるとしても、たいしたことじゃない。いいじゃないか、どちらでもよい時は。『〇〇専務のおっしゃる通りです』と上司を立ておけばいいんだよ」。

唖然とする僕を前に彼はにやりと笑ってこう続けた。

「そうすれば上司の覚えめでたいから僕の評価も上がるだろう。そこが付け目だ」「えぇ・・・?」

「さっき僕は『8割は正しい』と言ったね。いや、9割かもしれない。しかし残りの1割、君が絶対譲れない、明らかに上司が間違った判断をしていると確信できる重大局面線があるかもしれないじゃないか。そこで毅然と言うんだ。『それは違うと思います』とね」「・・・」

「そこでこそ使うんだ。日ごろのおべんちゃらで培った『信頼』を」。

僕にはこういう機会が訪れることなくサラリーマンを辞めましたが、今でもその時の先輩の顔と口調を覚えている。会社全体の予算を扱う部署の次長さんだったからかなあ、策士ではありましたが、いい人でした。仕事に信念があった。引用句を読んで久しぶりに思い出したので書き留めました。サラリーマンの皆さん、頑張って!

www.nikkei.com

おかしいな?と思ったらまず「間違っているのは自分」と考える

間違っているのは自分。
(今朝、妻より)

毎朝、翻訳ストレッチの前に朝日と日経に30~40分目を通す習慣。茶を入れて玄関の新聞受けに手をやるとない。ねんのために玄関を開けて外から見てもない。昨日は高校合唱部の同期会があったので寝坊。すでに7時を過ぎているのに新聞が来てないのはオカシイと思い、すぐに電話する。いく分冷たい声で「待っているので急いで下さい」と言って切る。で、ソファに目をやると新聞はそこにあった。

要するに、大学生最後の試合に早朝出て行った次男が新聞を取り込んでおいてくれたのだ。すぐに新聞販売店に電話してこちらの不注意を平謝り。「大丈夫ですよ~。もう配達に出ちゃってので処分しておいてください」・・・といういきさつを妻に話したら出たのが冒頭の一言。「お父さん、何かおかしいな、と思ったらまず自分を疑った方がいいと思うの。あたしもこの前(・・・ここから先は妻の名誉のためにあえて伏せる)・・・もう、そういう年になっちゃったのよ、あたしたち」。一切反論できませんでした。素直に反省。

出版社(アスク出版)の丁寧な対応に感動と感謝(2019年12月3日)

3日ほど前に『ヘミングウェイで学ぶ英文法』の出版社アスク出版宛にツイッターでメッセージを送った。本の一部に疑問があった。要するに本が間違っているのではないかと思って、その点を問いただしたわけ。最初は本に挟んであった葉書に書いて送ろうと思っていたが、何だか面倒くさくなっているうちにふと、メッセージで直接送れば?と思い立ったのだ。

数日待ったが何の返事もない。ベストセラーの編集部だからこういう質問が多いのだろうなあ、時間がかかってもしようがないかと自分を納得させたものの、もしかしたら無視されたかもという残念な気持ちもないではなかった。

ところが昨日「お問い合わせありがとうございます」と担当編集の方からの丁寧な返信が届いた。結論から言えば、私が間違っており、当然その原因は私の不勉強であったのだが、私が「誤訳ではないか?」とした部分について、ネイティブ・スピーカーの方にまで確認して、例文つきでご返信いただいた。もちろんすぐにお礼の返事を出した。するとその後に、「担当編集から鈴木さまへ追加のご案内が届きました」と、例文の出所まで教えてくれたのだ。

先ほど私は「数日待った」と書いたが、今これを書きながらメッセージの日付をみると、私が質問をしたのが11月29日(金)の午後4時53分。先方からのお返事は昨日(月)の午後5時過ぎだったことになる。僕の方は土日関係ないから、3日たった感覚だったが、先方からすれば、つまり営業日ベースでは「翌日」にご対応いただいたわけ。
出版社の誠実な対応に心から感謝。だからヒット作出しているんだね。こういう志は応援しちゃうよ。対訳本の概念を変えた素晴らしい本であることは間違いないわけだし。

「外国語を使う人は余所の家にお客に行った様なもの」(斎藤秀三郎の残した言葉)(2019年11月30日)

(以下引用)

西洋人、殊に米国人は”shall”, “will”の用法が乱暴で、少しも構わず使うから……といって我々日本人も構わずに使うと言う申し分は立たぬ。自国語を使う人は言わば自分の家に居住するようなもので、我が家にありては無礼講は当然のことである。しかるに外国語を使う人は余所の家にお客に行った様なものだから、その家の家風に従うことは何よりの心掛けで、小心翼々としてその国の習慣を守るのは当然のことである。
(『斎藤秀三郎伝―その生涯と業績』p232、大村喜吉著、吾妻書房)
*漢字と句読点は読みやすいように私(鈴木)が修正しました。

ちょっと引用としては長いですが、もはやほとんど出回っていない書籍からのものなのでご勘弁を。斎藤秀三郎氏の正則英語学校の講義録を書籍にしたもの(『動詞講義録第2巻』)からの孫引き。要するに、文法は大事だよ。ネイティブが言っているから正しいのじゃないのだよ、と主張しているわけ。

アマゾンkindleで斎藤さんのお書きになった「教科書」をいくつか買うことが出来ます。値段も100円ぐらい。1つ買ってみて驚いたのは、日本の中学生(今の高校生)用の英文法教科書が、英語で書かれている点。最近の安易な「コミュニカティブ・イングリッシュ」礼賛の風潮に対する痛烈な批判になり得るその達人の斎藤さんの言葉だけにズシリと来る。本書なぞ復刻したら売れると思うのだけれど。 

TOEIC対策本は専門家の書いたものに限る(2019年11月)

TOEIC L&R TEST 990点突破ガイド 英文法・語彙編』1回目終了。上級者向けのパート5の本としてはベストだと思います。ただし、TOEIC800点台前半までの人がやっても時間の無駄なので要注意。このレベルの人には『TOEIC L&Rテスト 文法問題でる1000問』(TEX加藤著、アスク出版)が超お勧め。それと、前にも書いたがTOEIC問題集を「ついでに」つくっている人の本は回避が無難。

世の中にはTOEIC本の執筆に命を賭けている(と思われる)人が何人かいる。そういう「この道の本当のプロ」の方々が「一冊入魂」でつくった本で学ぶべきだ(もちろん、学習者がTOEICに命を賭けるのはナンセンスである)。なお、英語一般で活躍されている先生が「ついでに」書いたTOEIC本は眉唾と考えた方がよいと思う。実際に本を手にとって10数ページを読んでから慎重に決めるべし、というのが僕の実感。