金融翻訳者の日記/A Translator's Ledger

自営業者として独立して十数年の翻訳者が綴る日々の活動記録と雑感。

狂信の時代:玉音放送をめぐって(『深代 惇郎の天声人語』 (1976年)より)

今朝の翻訳ストレッチから
(以下引用)
               激論
昨日につづけて「八月十五日」を書く。昭和二十年八月十五日午前四時ごろ藤田侍従長天皇の書見室にはいった。天皇の無精ヒゲが目立った。飾りだなには、リンカーン大統領と科学者ダーウィンの胸像が置かれてあった。

その4時間前に、天皇は放送録音を終えていた。第一回録音は「少し声が高かったようだ」といって、やり直した。第二回は接続詞が一つ抜けてしまった。だが疲れ切っておられ、三回目の録音は行われなかった。この録音奪取をめぐって、前夜から宮中クーデターが起こっていた。天皇は一睡もせずに、敗戦の朝を迎えられていた。

日本帝国の最高指導者たちは、ポツダム宣言を受諾すべきか否かで、連日激論を闘わしていた。連合国の回答文の「最終の政治形態は、日本国民の自由に表明する意思による」という部分が、天皇制護持を認めるものであるかどうかが争点となった。

「先方の回答のままでよい」と即答したのは、天皇ご自身だった。天皇は「たとえ連合軍が天皇統治を認めても、人民が離反したのではしようがない。人民の自由意思によって決めてもらって、少しも差し支えないと思う」と、木戸内大臣にその理由を述べられたという(以上は児島襄『天皇』第五巻より)。

今では想像のつきにくい狂信の時代だった。どたん場になっても、陸軍大臣は「戦況は五分五分、互角である」と強弁した。志那派遣軍司令官からは「尊厳なる国体護持は、最後の一人に至るまで戦い抜きてこそ可能」と打電してきた。日本の教育は、「精神」に泥酔し、「言葉」に踊り狂う人間たちを作った。

その中で天皇は、立憲君主にふさわしい消極的な人間として育てられたが、合理的な思考は失われなかった。戦争の最中、敵国である米国大統領と英国の博物学者の胸像を自室に飾っていた。そこに天皇の合理主義と政治理念をうかがうことができるかも知れない。

茫々三十年の後、来月三十日には、リンカーンの国を訪れる史上はじめての天皇となる。(昭和50年8月15日)
(引用終わり)
『深代 惇郎の天声人語』 (1976年)

info.asahi.com