金融翻訳者の日記/A Translator's Ledger

自営業者として独立して十数年の翻訳者が綴る日々の活動記録と雑感。

1920年に書かれた「百年後」

以下は、8年前の今日、FBにお友だち限りで書いた、というより書き写した文章です。

(以下引用)

今朝の翻訳ストレッチ音読用教材から
(以下引用)
                  百年後
 二十一世紀は、どんな世の中になるのか。米国の専門家たちの予測によれば、人間はプラスチックの自動車に乗り、プラスチックを食べるようになると新聞に紹介されていた。人類は石から銅へ、銅から鉄へと進歩してプラスチック時代にはいり、きっと栄養たっぷりで、おいしいプラスチック料理ができるようになるのだろう。
 これは「進歩」と称すべきものなのかどうか、筆者の貧しい想像力では判断しがたい。しかしわれわれはプラスチックに囲まれて、理想社会に近づいているのだという信仰は、とても持ち合わせていない。大正九年1920年)、『日本及日本人』という雑誌が「百年後の日本」を特集した。当時の知識人にアンケートしたものだが、五十五年後の今日、読み返してみておもしろい。
 「一寸先は闇、いわんや百年後など夢想だにおよぼざるところ」といった回答もある。一寸先の分からないのは、今の政界の話だけではないらしい。この中で、科学技術についての予言は、百年を待たずして実現されてしまったものが多い。たとえば「芝居も寄席も居ながらにして見、聞きできる対面電話」「土を化して米となし、草を変じて肉を作る法」などは、いい線をいっている。
 だが人間自身の「進歩」についての見通しには、悲観的なものが多い。「女権は拡張すれど、一般女子の貞操感いちじるしく低下す」と女学校長は心配している。評論家正宗白鳥は「みんなが浮かれ出す世になる」という予言だ。「人間が段々幸福になってゆくかどうかは疑問」というのは、作家菊池寛である。
 社会運動家山川均の言葉は、心をうつものがある。「百年後の日本は、百年後の予想を忌憚なく答えても、縛られる心配のない世の中になるでしょう」。同じような言い方で「二十一世紀の世界は、人間が未来を語るときに、今ほど暗い疑いをもつことのない世の中になるでしょう」と予言したい。昭和50年(1975年)10月13日
(引用終わり)
書き写すのに約15分かかりました。平成25年(2013年)4月4日
(2013年の書き込みここまで)(今、この貴重な文章を市中ではほとんど読むことができないことに鑑み、この書き写しを公開したことを著作権者には目をつぶっていただければ)。
このエッセイの元となった「百年後の日本」が書かれたのは1920年。深代さんがこれを引いたエッセイを書いたのが1975年、つまり「百年後」から55年後で、我々はそれから46年後、つまり「百一年後」の世界に生きている。
なお、深代さんは21世紀を次のように予想している。
「二十一世紀は、どんな世の中になるのか。米国の専門家たちの予測によれば、人間はプラスチックの自動車に乗り、プラスチックを食べるようになると新聞に紹介されていた。人類は石から銅へ、銅から鉄へと進歩してプラスチック時代にはいり、きっと栄養たっぷりで、おいしいプラスチック料理ができるようになるのだろう」。
今はどうなっているか。
そして「しかしわれわれはプラスチックに囲まれて、理想社会に近づいているのだという信仰は、とても持ち合わせていない」。慧眼だ。
そして最後
「『二十一世紀の世界は、人間が未来を語るときに、今ほど暗い疑いをもつことのない世の中になるでしょう』と予言したい」

 どうなっているか。今を生きているみんなで考えてみたい。