金融翻訳者の日記/A Translator's Ledger

自営業者として独立して十数年の翻訳者が綴る日々の活動記録と雑感。

「お客様のニーズに応える苦労」→「前言撤回―無理と思ったのは訳者の甘え」(2013年6月)

某社から、私の訳したレポートが読みにくいのでもう少し何とかしたいとの連絡(メール)あり。この会社、これまでこういうことがなかったし、今月は特にいつもとプロセスを変えたつもりはないのだが・・・と思いつつとりあえず青くなって電話してまずは謝罪。お客様のニーズに応えていなかったことは事実なので。

すると担当者も怒っているのではなく、「訳は正確で十分満足しているのだが、『最初から日本語で書いた文章のように』しないと営業サイドから詰められる。どうして行きましょうか?」とのことだった。

とりあえず私が改めて自分の訳と最終の訳をチェックしてみることに。昨日は時間があったので2時間ぐらい見直してみる。3分の1ぐらい見直したところ。

実に微妙だ。基本的には語の選択(個のみの問題)に近いとの印象はぬぐえない。もう一つは、翻訳ではこれ以上訳しようがなく(これ以上の省略は無理)、それ以上削るのは編集者の責任ではないか、と思った箇所が何カ所もあったこと(つまり訳抜けを犠牲にして日本語として自然に流れる文章にすると英語に書いてあった重要な情報が落ちる、と言う箇所)。つまり翻訳の限界である。前者については主張しても意味がない。お客様の好みに合わせていくしかない。後者は相談の余地があると思います。

いい勉強になります。

(後記)

「前言撤回」

さっき僕は、

「訳抜けを犠牲にして日本語として自然に流れる文章にすると英語に書いてあった重要な情報が落ちる、と言う箇所)。つまり翻訳の限界である」
と書いたが、これは翻訳者の甘えだな。

つまり私のお客様は、

「それだけを読むと不自然に見えた日本語のある情報を抜いたら自然に読めた」

のだけれども、最初から「その情報を抜かなくても自然に読める日本語」

にしておくべきだったんだ。

英語と日本語では文の構造が違うのだから、英文の構造で書かれたものを日本語にしていこうとすると、それを一文の中だけで解決しようとすると無理が生じることがある。その意味ではさっき私の書いたあきらめにも一理ないわけではない。
しかしながら、かりに一文では無理だったとしても(むろん、本当に無理だったのかの反省はいる)、一段落の中であれば必要な情報を過不足なく、しかも日本語として読んで自然な形で入れ込むことはできたはずだ。

そういう例を何度も見てきたじゃないか、書籍では。

さっき翻訳筋ストレッチで『さゆり』の原文と訳文を音読しながらそのことに気がついた。

いかんいかん、つい安きに流れるところだった。反省します。