「負けた試合のことなんて思い出したくない」
ふつうはだれでもそう思う。故野村克也監督は「負けに不思議の負けなし」とおっしゃった。これは「負けは思い出したくないもの」という一般の通念を前提として、あえて若い人たちに反省を促した名言だと思う。
井上尚弥に敗れた選手たちにインタビューするという企画を思いついた時の著者も同じ不安に襲われたそうだ。だからこそ取材の申し込みもおっかなびっくりだったし、インタビューそのものも遠慮がちに始まった。僕も著者のそういう思いに共感しながら読み進めた。嫌がる選手たちにインタビューを受けてもらうまでの苦労話などもちりばめられるだろうと予想しながら。
ところが、著者の予想とは裏腹に、井上尚弥に敗れた選手たちは、試合の模様を事細かに、雄弁に、時に楽しそうに語るのだ。そのことに著者は最初驚き、そして気づく。敗れた者たちが「井上尚弥と試合をしたこと」を誇りに思うほどに、彼はビッグになっていたことに。井上と判定まで持ち込んだ選手はそのことを勲章にすらしているという事実は不思議でも何でもないことが、読み終わるまでにはっきりわかる。
それぞれの選手が井上尚弥と対戦するまでにたどった人生、そしてその後の人生も描かれる点が本書の内容に一段と深みを与えている。
心から感動した。読み進めながら、巻末までたどり着くのがもったいなく感じてページをなかなか繰れなくなった。こんな本は本当に久しぶりだ。
著者渾身の大傑作に拍手。