「あ、それから」と打ち合わせの席で僕は言った。
「僕は『訳者あとがき』は書きません」「え」
「僕が仮に英文学の専門家で、専門に研究している分野あるいは作家の翻訳をしたのなら、『訳者あとがき』はありだと思います。いやむしろ入れるべきだと思います。でも僕はこの分野の専門家ではなく、単なる無名の翻訳者にすぎません。そんな人間が表にしゃしゃり出て『さあさあ、これがあとがきでござ~い』なんて恥ずかしくてできません」
「なるほど」
「『訳者あとがき』に割くスペースがあるのだったら、是非この道の専門家、プロフェッショナルに解説をお願いした方が何百倍もプラスのはずです」
・・・とまあ、こういう理屈で、僕はこれまで4冊の訳書に4人の「解説者」を推薦してきた。全員その道のプロ中のプロ。そしてうち3人が私の知り合いだったので、自分で打診した(そして、幸いなことに引き受けてもらってきた)。
「訳者あとがき」は、頼まれることも、頼まれないこともある。今回だってわからなかったのだが、訳しているうちに「解説」が、しかも本物の本物による解説があったらこの本の価値がググッーと高まるという気持ちが強まっていった。
原稿を提出して編集御担当とやりとりしているうちに、その気持ちが一段と強くなり、しかも解説の方の顔が、僕には次第にクッキリと思い浮かぶようになっていた。知り合ってそろそろ30年。この分野に関する知識、識見はもちろん、人格的にも申し分のない、当時からず~っと尊敬していて、私よりも3つ年下だが「さん」づけで呼び、敬語で接してきた素晴らしい人物だ(当時、縦社会の権化のようだったN証券で、自分より年次が下の人と敬語で話す事例はほとんどなかったと思う。もちろん今は時代が違いますので、誤解なきよう)。ず~っと知り合いでつかず離れず。時たま仕事をくれたり、雑談したり、食事をしたりという関係が続いてきた。
いよいよ彼の出番なのだ!
そういう気持ちが僕の中ではかなり早い段階で固まっていたものの、こうした事柄はプロセスとタイミングが大事である。僕はずっと様子を窺い、ついに先日、編集担当者の方に「僕の『訳者あとがき』ではなく『解説』をこの人で」という提案をしたのである。
もちろん、解説をどうするか、帯の推薦文をどうするかというのは編集者(出版社)の役割である。マーケティング上誰に解説や推薦文をお願いするかは、戦略的な判断が必要であって、へっぽこ訳者の出る幕ではない。それは重々わかった上での提案だ。
「わかりました、鈴木さん」と僕の提案を引き取ってくれた上で編集担当のKさんはこう言った。
「ただ、実は私は『訳者あとがき』には意味があると思っているんです。訳者として大きな仕事がおわり、翻訳で苦労した部分、翻訳書が出されるに至った経緯、著者とのやりとりなど、訳者でしか書けないこともあると思うのです」
確かにそういう面はあるかも、と感心したのだが、その一方で、よほど特別なエピソードでもない限り「翻訳の裏話」を書いて読者が興味を抱くとすれば、それはよほど高名な翻訳者に限られるのではないか、と思ったりもする。
いずれにせよ、それから数日後、その方にお願いすることが決まったという連絡を受けた時は合格電話(電報)を受けたような心境になりました。出版はまだ数カ月先なのに「これは行ける!!!」と心の底から思った次第でござる。
え、それってどんな本?解説者って誰?
ちょっと待ってね。秋に出版予定です。