(1)3年前
(なぜ絵を描くのか、と尋ねられて)どう答えていいのか、僕もわからない。そもそもよい絵を描こう、という覚悟がない。子どもの時からずっと描きたい絵を描いているだけで、自分の中では何も変わってないんだ。
でもご飯を食べるように、ずっと絵は描きたい。実際に描いてみないと、次が見えてこない。この楽しみに終わりなんてないんです。
(画家 野見山暁治「人生の贈りもの」)
(2)4年前
「誤訳」とは、原文についての(語句・構文・文法・内容などの面における)解釈が間違っていて、それが原因で生まれる訳文。
「悪訳」とは、解釈そののは正しく行われていても、訳文を通して原文の内容の正しい理解に到達することが困難なもの、
としておく。つまり「誤訳」は解釈の誤りに由来し、「悪役」は表現の欠陥にかかわる。
(中原道喜著『誤訳の構造』p12より)
*この1月から、僕自身は訳さずに複数の翻訳者の方の翻訳を校閲して一つのレポートにまとめる仕事をしています。それで感じるのは、「悪訳」は訳者本人よりも他人の方が気づきやすいということ。
翻訳者はどうしても原文に近づきすぎて、できあがりの日本語を他人ほどには客観的に見られない。僕が手を入れる所はほとんどが(誤訳ではなく)「悪訳」で、かなり直すことも多いけれども、それは僕の方が翻訳ができるからではなく僕が訳していないから。だから、今僕が手を入れているこの翻訳者の方と立場が入れ替われば同じように僕の「悪訳」が直されるのだろう、ということは自覚して仕事をしている。単なるチェッカーでなく校閲者は必要だと強く感じます。