金融翻訳者の日記/A Translator's Ledger

自営業者として独立して十数年の翻訳者が綴る日々の活動記録と雑感。

「学者の執念」(『石の虚塔 発見と捏造、考古学に憑かれた男たち』を読んで)(2014年11月10日)

『石の虚塔 発見と捏造、考古学に憑かれた男たち』上原善広(新潮社)を読み終える。

迫力のある本だった。教科書書き換えにまで発展した藤村捏造事件は毎日新聞の『発掘捏造』で読んで知っていたが、本書は戦後の考古学の発展と歪みを「その後」も含む取材で追ったもの。
色々な感想があって一言では語れないが、印象深かったポイントを一つ挙げるなら、本書の中心を占めたある有名な考古学者が若い時にはあれほど柔軟で若い人、学歴のない人にも分け隔てなく接していたのに、年がたつにつれ師と喧嘩し、後には同僚と喧嘩し、さらには弟子の意見にも耳を貸さなくなり、ついには捏造事件の犯人藤村某氏の庇護者になっていく・・・という展開だった。彼ばかりではない。藤村遺跡のほとんどが捏造だったことが毎日新聞にスクープされるまで、考古学学会がいかに「(主流派に対する)異論に耳を貸さないか」どころか「出る杭を徹底的に潰そうとするか」が当事者たちの証言を基に詳細に語られる。しかも意見の対立は人間的な憎悪、それが本人たちばかりではなく弟子たちにまで及ぶという科学と言う言葉とは裏腹のドロドロした人間関係に発展してしまうという点だった。
しかしこれは考古学学界だけの問題ではあるまい。
だれでも批判されればそれがどんなに正しいと頭では分かっていても冷静ではいられなくなる。その気分をグッと抑えて反省するのだけれど、やはり「何か」が残るのだろう。学問の世界は批判し批判されることで発展していく。それが日常茶飯事なはずだから、議論→ドロドロした人間関係へと変貌しやすいのかもしれない。ましてや学説は個人の説に集約されることが多い。そして学者は自分の説に命をかけている。ということは自説を批判されるということは自分という人格を批判されるのと同じぐらいのインパクトがあるではないか。
学者の講演が「異論の徹底的な全否定と自画自賛」になりやすいのもわかったような気がした。
一方そう考えると、学説の対立=どろどろした人間関係へ発展する分野ほど当事者同士が真剣勝負だと言えなくもない(かな?)。