金融翻訳者の日記/A Translator's Ledger

自営業者として独立して十数年の翻訳者が綴る日々の活動記録と雑感。

翻訳は「作業」か?

以下はあくまでも好き嫌い、というか心理的な抵抗感の問題です。

最近翻訳関連の書籍を読んでいてひっかかるのは「処理する」という表現かな。「〇〇という表現の処理は難しい」とか「ここから先は処理に困る箇所はなさそうです」とか。

同じような意味で、「手が早い」「手が荒れる」という表現にも抵抗を感じる。

それほどじゃないけど、翻訳「作業」という言葉も。

以上の表現は、何か翻訳を手仕事、というか手先の仕事にたとえているような感じがする。どちらの方がよい悪い、高級、低級ということではなく、翻訳のたとえとして違うのではないか、という気がして僕はなるべく使わないようにしています。

毎日ウンウン唸りながら原文の一語一語を飲み込んで、日本語の言葉を絞り出して、置いて、並べて、また並べ直している感じかな。

僕の英語力と日本語力の問題かもしれないけれど。

「勤めている会社が世間から袋だたきに遭うということ」②(自分の職場が捜索された時の様子や感想など)

昨日のお話の続き。21年前の当社の事件は「社長の犯罪」だったので僕らの部署は「ついで」だったからあの程度で済んだのかもしれないが、自分の職場が特捜部の捜索を受けた時の前後に関して思い出したことをいくつか。

① 実に静かに始まって、静かに終わった。
「特捜部が社内に入りました」という連絡は社内の内線電話で受けた。債券部→株式部→私の部署と担当課長ベースでの内線電話による文字通りの伝言ゲーム。社内も普通に仕事をしていたので関係者以外誰も知らない。

ふと気がつくと専務が若手のサラリーマン風の男性(女性だったかもしれない)と名刺交換をしている。本当に丁寧な挨拶をした後、「では、よろしくお願いします」といって捜査が始まるんだけど、10人ぐらいの捜査員が段ボール箱を各取締役の部屋(ウチの部だけで取締役が確か7人いた)に運んだり、パソコンのチェックを始めて、本当に静かなもの。

夕方6時に課長会で別室に集まった時もチラを見られたが何も言われなかった。「え~と本日から特捜部の捜査がはじまりましたが・・・」と司会が言って初めて「え~あの若い兄ちゃん達、特捜部?俺はてっきりシステム会社の人がパソコンをチェックしに来たのかと思ってた~」とその場でビビりまくっていた次長がいましたっけ。それほど静かな、あたかも業者の軽い引っ越しみたいなイメージでした。「普段と同じように仕事をしてていい」と言われたので、普通に仕事しながら「他に隠さなければいけない資料なかったかなー」なんて考え事したなあ。

今のようにインターネットが発達していなかったので、社員はいったん社内に入るとテレビでもつけない限り社外の情報は全くわからない。よくニュースで「たった今、地検の捜査員が入りました!」ってあるじゃん。あれを家に帰ってテレビで見て、「これ、当社だったんだー」と感じるくらい落差があったな。

②押収品には預かり証が発行される。
押収物は全部記録されて預かり証が作られる。リストをその場でつくるのではなく、たぶん、取りあえずお預かりしました的な文書を示されて専務が署名していたと思う。専務と取締役、部長、それぞれの秘書の机の中と(役員の)背広の中は取りあえず全部もってかれたんじゃなかったかな。何しろ秘書のKさんがあとで、「あたし、夏休みに写した水着写真を持って行かれそうになったので、『ホントにそれいるんですか?この捜査に?』と言ったら返してくれたわ」。で、確か半年ぐらいたってから返してくれたんじゃなかったか。

③マスコミや社会から叩かれるということ
大半の社員は真面目に働いていました。

でも、テレビや新聞であれだけ騒がれ、正義感ぶった評論家からあれだけたたかれると腹も立つし気持ち的にはかなり萎える(僕はSという評論家の主張の多くを正しいと思うし評価もしているが、当時そのS氏が「証券界というのは資本主義の痰壺なんです」と言っているのを見た時は涙が出るほど悔しかった。あの発言は恨みとともに一生忘れないと思う。頭で彼の言うことを理解しても感情的には許していない)。

一番苦労していたのは営業店だった。お客様からのクレーム電話、怒鳴り込みは続いたし、商店街から出て行ってくれと正式な申し入れを受けた支店もあったぐらいでね。社章を見とがめられて殴られた社員が出たので、社外では社章を外してもいいという通達さえあったぐらい(俺は意地でつけてたけどね)。だから、なおさら身内意識が高まって「身内を守る」的な結束が強まっていたような気がする。道徳観がある意味逆転する(社会とずれる)んですよ。

そういう経験があったからかなあ、不祥事を起こした会社や役所が出るたびに当時のことを思い出して、実は真面目に働いている大半の役職員の人たちにちょっと同情しちゃうんです。

「勤めている会社が世間から袋だたきに遭うということ」①(組織の危機時に身内からド嫌われる三つのタイプ) - 金融翻訳者の日記

「勤めている会社が世間から袋だたきに遭うということ」①(組織の危機時に身内からド嫌われる三つのタイプ)

今から二〇年以上前、当時自分のいた会社で幹部が逮捕され、いくつかの部署に東京地検特捜部が入り、代表取締役以上全員が退任という危機に遭遇した。

社長のやったことに腹を立てながらも会社を守るために一生懸命がんばりましたよ、その時は。書類もシュレッダーにかけたし、特捜部の捜索の時には専務の手帳を秘書のロッカールームに隠してもらったりね。社会的には決して許されることじゃないんだけど、ま、それなりに個人的なリスクを負って組織防衛に走るわけよ。それが会社のため(それが正しいこと)と思っていたからね・・・この部分がゆがんではいるんだけど、一当時の課長の生き方としてはさ、そうやって会社を守ることが「正しいことだ」と心の底から思っていた(当時のこの僕の考え方は間違っていた、と今は思います)。

その時につくづく思ったんだが、次の三通りの人間は少なくとも身内からは軽蔑される(ていた)と思うな。

(1)自己保身に走る人:この手の人は逃げ回るのでわかりやすい。→部長クラスでこのタイプだった人は不祥事後にほとんど飛ばされたはず(僕の知っている限り。一方、一部部長連が連判状を以て代表取締役等に退任を迫った部長さんたちもいました・・・これは本当だと言われているし僕もそう思っている)。

(2)カミングアウト派:事態が沈静化するまで旗色を鮮明にせず、事態収拾後に「実は僕は(私は)・・・・だった」とその時の多勢につく人。→あんまり能力ない人が多かった(ような気がする)。

(3)それまでは組織に追随してきたのに、これが起きたことをきっかけに社会の正義感を振りかざして社内批判を始める人(社会的にはこっちの方が正しい)。→でも、社内では「そんなこと辞めてから言えよ」と思われる。でも辞めない。→ド嫌われていました。居場所がなくなってそのうち辞める。

その基準を当てはめると小泉さんの息子は(2)になるんですがね(僕は嫌いじゃないんだけど)、前川喜平さんは、どちらかというと(3)に近いかな(僕は大好きなんだけど)。ただ彼が組織批判をしたのは辞めてからだし、辞めるまでの人望はかなり厚かったみたい。でもああいうことがあるとド嫌う人もでるだろうなあとは思う。

内と外ではこれくらい見方が変わるということで、失礼しました。

「勤めている会社が世間から袋だたきに遭うということ」②(自分の職場が捜索された時の様子や感想など) - 金融翻訳者の日記

隠蔽体質について - 金融翻訳者の日記

実務翻訳におけるチェッカーは「見習い仕事」か?

実務翻訳業界でよく読まれている某誌今月号で「チェッカーのトライアル」を特集していた。

その中にチェッカーの要件として「翻訳の経験もあれば云々」という記述があった。

私は毎月校閲の仕事をしており、この業務は翻訳経験がかなりあり、しかも現役で翻訳をしていないとできない仕事だと実感しているので大いに違和感を抱いた。

一昨年、某所で講演会のようなことをした時にも、質問の中に「私はこれから翻訳を仕事にしたいと思っています。まずはチェッカーから・・・」とのご質問があったので、「それは順番が逆だと思います」とお答えしたことも思い出した。

あの特集はミスリーディングだと思う。「チェッカーは見習い仕事」という印象を翻訳希望者に与える可能性があるからだ。

他人の翻訳って自分の翻訳よりも突き放して見られるので、翻訳の質を上げるという点から校閲(チェック)には大きな意味がある。

だから、翻訳会社は翻訳経験の乏しい者を雇ってチェッカーにするよりも、翻訳者にチェッカー料金を払って翻訳を仕上げる体制を作った方がはるかに質の良い翻訳に仕上がると思う。翻訳者とチェッカー間で質疑応答も認めればなおよい。

では、費用(報酬)はいくらか?経験的には(実はそういう体制で翻訳を仕上げるチームに参加している)チェッカー料金は翻訳料の半額が適正だ、というのが肌感覚だ。

同じくらいの経験を持った者同士が、相手をリスペクトしつつ、間違いを指摘しあって良い物を作っていくのだ。他人の訳を校閲していてよく出会うのは、英文の理解は正しいのに英文の形(構造)に引っ張られて日本語が不自然になっているケースだ。伝えるべきは正確な情報と筆者の主張であって形ではない。もっとも、僕にもその傾向があることが自分の訳文を校閲してもらうと分かる。

もちろん、翻訳をしたこともない人にそんな仕事はできない。

 

コツコツ訳す

「こんなにぶ厚い本(『ティール組織』)どうやって訳したんすか?」

昨日の勉強会に来られたTさん(放送関係者)に献本するとこう尋ねられた。

「え~コツコツと訳しただけなんです」
「・・・そうですよね~。コツコツ訳すしかないっすよねー」
と感心されたのかあきれられたのかは分からない。

「『自分にできるだろうか?』と不安になって夜中に眼が覚めてしまったことは2度や3度ではありませんでしたけれども」

とは言わなかった。見栄かな?

「自分だったらこの条件で受けるか?」

翻訳会社は翻訳者に発注する時に「自分だったらこの条件で受けるか?」を自問すべきだ。その上で、受けないとしたら「自分は受けないけれどこの人にさせる理由は何か?」を相手に説明し納得させられなければその条件で発注すべきではないと私は思う。それは搾取だ。

ルーチンワークが「悟り」になるとき

つまらないお話です。

3日ぐらい前だったかな。トイレの床を拭き始めた時に「あれ、1日たった」と思ったんだよね。

翌日も、その翌日も、そして今日もトイレ掃除を始める時に「あ~、昨日のトイレ掃除から1日たったんだ。今オレは昨日と同じ事をしているなあ、1日すぎたんだなあ」と。デジャブみたいな感覚かな。

なぜこの3日間でそう感じるようになったのかはわからないが、そうなってみると、トイレ掃除の時にそう感じる理由がなんとなくわかるような気がした。

僕の場合、一日の様々な動きの中でトイレ掃除だけが「一日の中の活動の順位と、掃除の手順がほぼ100%同じ」なのだ。これ以外の全ての活動は、毎日少しずつ違います。トイレ掃除以外に我が家で僕がすることになっている「家事」は夕食後の皿洗いですが、これは食事の内容、人数によってかかる時間も手順もかなり違う。朝のゴミ捨ては、まあ日々のゴミの量によって異なりますわね。

翻訳ストレッチも毎日やっているが、その日の忙しさ具合によって時間は異なるし、(お暇な方は細かく見ていただくと分かるのですが)使う教材も毎日少しずつ違う。

ところがトイレ掃除だけは、全く同じ手順、動作なのだ。今やこの作業はほとんど無心かも。で、その活動の途中に「デジャブ」になる。

最近そういう感じになったのは、もしかしたら、この作業を始めて7年たって(東日本大震災後に思い立ち、以来家にいるときは必ずトイレ掃除をしています。大晦日でも元旦でも)一種の「悟り」に達したから?行動が確立したからだろうか?

なんちゃって。

失礼しました。