金融翻訳者の日記/A Translator's Ledger

自営業者として独立して十数年の翻訳者が綴る日々の活動記録と雑感。

「人間が何をなすべきか、何をなすべきでないかの線引きは、科学では用意できません」:2018~2021年の今日(3月1日)に出会った言葉

(1)2020年3月1日
(科学万能主義に対するオルタナティブ)の一つとしてあるのは「倫理」でしょう。人間が何をなすべきか、何をなすべきでないかの線引きは、科学では用意できません。 村上陽一郎
(山口周『ニュータイプ時代―新時代を生き抜く24の思考・行動様式』p165(ダイヤモンド社))
本日の言葉:引用文は同書第10章「ルールより自分の倫理観に従う」の冒頭。出所がでていなかったので村上陽一郎さん(科学史家・科学哲学者)の講演録でしょうか。その章の中で山口さんは「いつ後出しジャンケン的に改訂されるかわからない明文化されたルールよりも、自分の内側に確固として持っている『真・善・美』を判断する方が、よほど基準として間違いがありません」(同書p 172)と指摘し、結局そういう会社が勝つ、と(これビジネス書なんで)。今のようなある意味危機的な状況こそ、自分の「真・善・美」をしっかり持って判断したいもの。

ただし、いくら善意に基づいているからといって、事実確認もしないでフェイクニュースをばらまくのは慎みましょう。
3日ほど前にあるニュースを知り合いから受け取り、「これは大事なニュースだ、知らせないと!」と数人に知らせたところで僕のメッセージを受けた方の一人から「これフェイクです。拡散しちゃダメ!」と言われ、あわてて取り消しとお詫びに追われました。SNSに投稿しなくて本当によかった、と大反省したところです(大恥)。
よい1日を!

(2)2019年3月1日
「曖昧の<が>を排除せよ」という注意は、正しい。ただし、これは正論である。正論の常として、息がつまる。一度、「曖昧の<が>」をまった使わずに本を一冊書いたことがあるが、息がつまった。「死ぬまでに一度たっぷりつゆをつけてそばを食いてえ」という気持ちがよくわかった。……

私が初めて「曖昧の<が>を使うな」という注意に接したのは、清水幾多郎の『論文の書き方』である。しかし、いまこの本を読み直してみると、「曖昧の<が>」が何度も出てくる。「私が言うとおりにせよ」と注意するのは簡単だが、「私がするとおりにせよ」と示すのは至難の業だ
野口悠紀雄著『超文章法』p210)

(3)2018年3月1日
「孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の『間』にあるのである」。三木清「人生論ノート」