金融翻訳者の日記/A Translator's Ledger

自営業者として独立して十数年の翻訳者が綴る日々の活動記録と雑感。

「苦しい時ほど、しっかり語るべきだ」:2018年~2021年の今日(3月2日)に出会った言葉

(1)2021年3月2日
『浮き世の画家』のオノや『日の名残り』のスティーブンス、『わたしを話さないで』のキャシーは皆、「あなた(たち)」という聞き手に語りかけている。しかし、……邦訳では削除されている。読み易さや、翻訳とは感じられないことを良い翻訳の基準であるとするならば、……削除されるべきあろう。しかし近年では、ローレン・ヴェヌティのように、従来的な翻訳の時民族中心主義的な態度を批判し、安易に異文化の異質性を排除したり、自国の文化に馴致(じゅんち)したりせずに、その異質性を保持するように説く批評家も登場している。ヴェヌティ的な観点から見れば、イシグロの小説の聞き手は、それがどんなに異本語に馴染まなくとも、決して削除してはならない要素だと言える。(中嶋彩佳「カズオ・イシグロの小説における翻訳の名残り」『『ユリイカ』2017年12月号特集「カズオ・イシグロの世界」P84)
*本日の言葉:別宮貞徳さんが『裏返し文章講座』で「日本語が分かっていない」「もはや日本語ではない」「品がない」「頭が悪い」等々と徹底的に批判している(というか罵倒)小宮豊隆、水田洋、都留重人伊藤整等々の翻訳にも一理あり、というかこちらが翻訳の目指すべき方向だ、という主張が最近出てきている、というのは驚きとともにある意味新鮮に感じました。が、翻訳論としてはわかるけれども僕にはちょっと……。あるべき翻訳に対するスタンスの違いだとは思いますが。

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(2)2020年3月2日
下訳使うなんて信じられない。
柴田元幸著『僕は翻訳についてこう考えています 柴田元幸の意見100』アルク社、p130)

*本日の言葉:これは結構有名な発言で、その後に「何で他人に自分に代わって遊んでもらわなきゃいけないのか」と続く。村上春樹さんも同じだと。これを読むたびに思い出すのは、数年前に、あるビジネス雑誌の編集長からお伺いした話。「(故)山岡洋一さんほどフェアな翻訳者を僕は知りません。まず、原則として下訳を使いませんでした。締め切りや量でどうしても他の人に下訳っぽいことをお願いしなければならないときには共訳にするか、あとがきで手伝ってくれた人のお名前を必ず出す。そして各人の担当ページをきっちり計算して、印税をその量に比例して分けておられた。最後にご自分で全体を見て手を入れておられるのにですよ」。良い悪いの話は横に置き、柴田先生と山岡さんの違いは、「その翻訳に生活がかかっている(「仕事」)か、かかっていない(「遊び」)か」ということだと思う。
しかし「僕は東大教授としての給料があったから出版翻訳ができた」と公言されている柴田先生。だからこそ翻訳を「遊びだ」と仰っているわけであって、「下訳使うなんて・・・」という言葉のウラ側には、「下訳も正当なサービスなのだ。安易に安く買いたたくな」という、山岡さんと同じ思想が流れていると僕は思っています。

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(3)2019年3月2日
社会の歪(いびつ)、もしくは不全を、憂い顔で、しかも自身は安全地帯に身を置いたまま批判するというのは、“批評家”の偽善であり狡知である 芥川龍之介
(「折々のことば」 2019年3月2日付朝日新聞

(4)2018年3月2日
困難な状況でもちゃんと話すのは、容易ではない。でも苦しい時ほど、しっかり語るべきだ。いいときはだれでも「いいよ!」とスラスラ話せる。そうでないときこそ、その人の人間が分かる。
(「自分を語ると言うこと ― サッカー人として」三浦知良さん。2018年3月2日付朝日新聞より)