金融翻訳者の日記

自営業者として独立して十数年の翻訳者が綴る日々の活動記録と雑感。

「『スラック』から考える失業率 (その3)」―働いていない人々をすべて含めて考える:リッチモンド連銀のHornstein-Kudlyak-Lange非雇用指数NEI

日本会議通訳者協会のマイク関根さん(先日『通訳というおしごと』(https://www.amazon.co.jp/dp/4757433972/ref=tmm_hrd_swatch_0?_encoding=UTF8&qid=&sr=)を出されました)にそそのかされて(?)昨年春から、本業(金融翻訳)で出会いそうな、でも深く調べずに訳語検索だけで終わりそうな言葉を捕まえて解説(いや、感想か?)をする連載を持たせていただいております。
今回は第4回。「失業率がかなり低い(かった。ここからはわかりませんで~)のに景気が良いと実感できないのはなぜ?」という素朴な疑問が出発点で、調べてみたら今、世界で採用されている「失業率」にかなり問題がありそうだということに気がついたテーマの3回目です。
先日、自粛直前に関根さんと飲んだら「鈴木さん、今のもとってもいいんだけど(←ここはお世辞なくらい俺様でも分かる)、もうちょっと軽いのも・・・」とやんわりと叱られた(←こっちが本音なくらいあたしでも理解できますわ)ので、次回はもう少し柔らかい、というか「よく耳にするけれどもその背景がよくわかっていない」経済用語について書くつもりです(テーマは決まっています)。
 よろしくお願いします(このシリーズの(1)からお読みいただいた方がよいかも:記事中にリンク先が貼ってあります)。

デマに惑わされないための一方法

「お父さん、これからあたしたちにできるベストの新型コロナウイルス対策わかったわよ」とその人は言った。
「なんですか?」
「インターネットを一切見ないこと」「なぬ!」
「新しい情報を得るメリットよりも、信頼できない新しいデマで不安になるデメリットの方が多いと思うのよ」
「なるほど」
 「・・・い~い、お父さん。今、あたしたちがウイルス対策でしなければいけないことはもうわかっているわけ。
①密閉された、人の集まる場所に行かないこと
②お話しするときは適度な距離を取るよう心掛けること。そうしてマスクするか、慎み深くお話しすること。
③帰宅したら、必ず手洗いをよくすること(我が家のルールは「お~たまじゃくしはカエルの子~」を2回歌って手を洗う(これでウチのは過去数年間風邪を一切引いていない。インフルエンザにもかかっていないのが自慢)。
④おじいちゃん、おばあちゃんには会いに行かないようにすること(こっちが感染しているかもしれないからね)
 これだけなの。あとは普通に生活すればいいのよ。
「大切なのは、新聞にはデマは載っていないってこと。もちろん間違いはあるかもしれないわよ。でもね、インターネットに流れる根拠のないデマよりはず~っと信頼できる」
「情報が遅れるって?朝夕の紙の新聞でじゅうぶん(我が家は朝日の朝刊と日経の朝夕刊)!大地震や洪水の時じゃあるまいし、この病気に関しては、情報が半日1日遅れたからって致命的になるはずないじゃない。
「お父さんが仕事の必要でインターネットに接するのはしようがないと思います。でもこと新型コロナウイルスについては、インターネットのニュースで見たとか、SNSで誰かが見たとか聞いたとか、どこかに書いてあったとかいう話は、あたしには今後一切聞かせないでくれる?」
「は~い」
「あ~ガラケイにしておいてよかった!」

『新訂・英文解釈考』を学び始めて

「そうした語学的「予測(anticipation)」能力と感性的「受信(reception)」能力を育てるという二つの目標の踏み石となりたい本書の中の文章はできるだけ濃(こく)のあるものにしようと、平凡なことを平凡にしか言っていないものは気前よく捨てた」
(佐々木高政著『新訂・英文解釈考』(金子書房)はしがきiiiより)

筆者によれば、ここで「予測」能力とは、読んでいて次に来るべき言葉がある程度分かるようになること。内容について予断を持つということではなく、語学的に、という意味。「受信」能力とは、文章の言葉遣いから、書き手がどんな意図、どのような感情を込めて書いているのかがピンとわかる能力と解説しています。本を開くと分かりますが、各章の冒頭の1パラグラフ、その後の例文のいずれをとっても、嫌みのない教訓がちりばめられている。

原仙作さん(『英文標準問題精講』著者)に似た文章構造の解析はあるものの、原さんほど精密ではなくやや粗っぽい。章立ても伊藤和夫さんほど体系的でないのは時代の制約か、と思っていたのだが、この「はしがき」を読んで、本書の主眼はそこにないような気がした。従って英語の初学者(大学受験生)には厳しいかも(不親切に響くから)。

むしろ僕らのように受験の制約のない英語好きが、構文解析で英文の形を確認して、内容を味わうには最適な本ではないか、という気が強くする。「本書は英文解釈の参考書である以上に最高の教養書」という評価をどこかで読んだことを思い出しました。

復刻してくれた金子書房さんに感謝します。

 

https://www.amazon.co.jp/dp/4760820019

 

いわゆる「写経」(原文と訳文の手書きでの書き写し)について(3)(最終回)

(10)音読について

実は音読はもう10年以上続けていて、その内容についてブログ(長続きする自己啓発「翻訳ストレッチ」ー毎朝、仕事前に、手広く、コツコツとー(『翻訳事典2018-2019』から))に書きましたので、ここでは書き写しとの違いについて感じていることを挙げ、その後、今トライしようとしている翻訳ストレッチの内容変更(テキストの変更は普段からやっているものの、スタイルを少し変える)について書いて置こうと思います。

http://tbest.hatenablog.com/entry/2019/10/09/105212

 

僕が実践している、翻訳を意識した原書と訳書の音読には2種類あります。

 (a)1文ごとの音読と「その場暗記」

一つは、『世紀音空売り』でやっているような、一文ごとの音読(原書と訳書)。一文原書を読んで、一文訳書を読む。そして疑問点を片付けたら「その場暗記」をします(詳しくはブログをご覧下さい)。必要があればメモするという点は写経と同じ。なお、『世紀の空売り』は原書、訳書ともに紙の本です。意味合いとしては写経と下の②に紹介した段落ごとの音読、の合間のような感じでしょうか。

 (b)段落ごとの音読。

原文と訳文を段落単位で読みます。前回、書き写しの時には文章の流れを見失ってしまうと書きましたが、昨年から写経を始めて、段落以上の全体の流れを意識して読むようになりました。原文を読んでいて、すっと分かるときも分からないときもあります。次に訳書を音読してそこを確認します。

必要があればメモを残すというのは写経と同じですが、残す先は訳書の余白です。今の翻訳ストレッチでは、『21世紀の資本』『浮き世の画家』『特急二十世紀の夜といくつかの小さなブレークスルー』がこれにあたり、(a)と(b)を1日置きに取り組んでいます。「写経が1日置きになる」と書いたのはそういう意味です。なお、このうち『21世紀の資本』の原書はKindleです。

 

(12)訳書以外の音読(と黙読)について

①ブログでも紹介している日本語の音読です。日本語として美しいと思う日本語を音読しようという意図でこれまでもずいぶん多くの本を読んできましたが、最近は「美しい日本語を音読する」意味合いに加えて、書店や本屋で見かけて思わず買ってしまったものを、少しずつでも(音読でも黙読でも)読もう、として読んでいる本に大きく色分けされてきました。今は、音読が『言語表現法講義』加藤典洋著(岩波書店)、『スローカーブを、もう一球』山際淳司著(角川文庫)、『思考訓練としての現代国語』棟 明郎著(育文社)、『井上陽水英訳詩集』ロバート・キャンベル著(講談社)の4冊、黙読が『心の傷を癒やすということ』安 克昌著(作品社)、『室内生活 スローで過剰な読書論』楠木県著(晶文社)『僕は翻訳についてこう考えています 柴田元幸の意見100』柴田元幸著‘(アルク)『ニュータイプ時代―新時代を生き抜く24の思考・行動様式』山口周著(ダイヤモンド社)『斎藤秀三郎伝―その生涯と業績』(吾妻書房)の5冊です。

 

②ここ3カ月ほど、Time誌の音読に取り組んでいます。5~10分です。写経にせよ、こここまで書いた音読/黙読にせよ、すべて日本語が介在しています。そこで、英語だけを読む時間を設けることにした訳です。最初は5分でしたが、せいぜい1ページなので、せめて2ページは読みたいなあと最近は時間を延ばしています。

 

(13)今後の組み換えについて

以上が写経と音読(黙読)について現在私が取り組んでいることの概要です。今、僕が考えているのは、写経(『帳簿の世界史』)を毎日やり、一文ごとの音読(『世紀の空売り』)と段落ごとの音読(『21世紀の資本』『浮き世の画家』『特急二十世紀の夜といくつかの小さなブレークスルー』)を交代にする、という案。こうすると『世紀の空売り』が4日に1度となってしまい、悩みどころです。

 

以上が書き写しと音読に関して僕が実践している内容です。皆様の日々の学習活動に何らかの参考になれば幸いです。

 

なお、ツイッターで「翻訳ストレッチ」と検索していただくと、何人かの皆様がご自分の翻訳ストレッチの簡単な内容(教材等)をお書きになっています。もちろん僕も毎回使っている教材と簡単な内容を毎日書いています。一緒に学んでいる皆さんに何かの参考になればと思って10年ぐらい続けています。ご興味のある方は覗いてみて下さい。

 

では!!

いわゆる「写経」(原文と訳文の手書きでの書き写し)について(2)

(5)毎回、最低でも1文(原文と訳文)の書き写しが終わるまでは止めない

「翻訳ストレッチ」では一つの活動を5分単位にしていますので、この書き写しも5分で一区切りなのですが、実際には文章が長くて、全部書き写し終わらないうちに(場合によっては、原文すら書き終わらないうちに)5分経ってしまうことがあります。その時はどうするか?原則として、1文の原文と訳文が書き終わるまで続けます。2文目の途中だったら、その原文と訳文を書き終わるまで続けます。結果として10分ぐらいになることもあります。

 

(6)写した後にすること

自分が書き写した原文と訳文を1回(か2回)音読します。そこから先は対訳を検討する場合と概ね同じなのですが、何しろ原文も訳文も自分で手書きしているので、結構細かい所に気がつきます。なぜこのofとかbeがこう訳してあるのか、なぜ訳文のこの助詞が「が」なのか。「しかし」ではなくて「けれども」なのか、とかいったことです。ノートへの手書きなので、英語で書き写し読んだ時にはパッと頭に入らなかった箇所や、日本語を書き写しているときに頭がついていかなかった箇所は、日本語訳を書き写す時に赤字で書いたり、丸で囲ったり・・・で、重要だな、と思った箇所は余白に書き込みます。ノートへの書き込みなので自由に余白を使えます(試しに見開き1ページ分の写真を撮りましたのでご参考までご覧下さい(字が汚くてスミマセン)。何しろ細かい所に気がつきます。それが書き写しの最大のメリットだと思う。

 

(7)書き写しのデメリット

毎日5分、せいぜい1文なので、その文章の流れ(コンテキスト)を忘れがちになります。だいたい、毎回前日分をさらっと復習してからその日の書き写しに入りますが、時たま、見開きを一覧してざーっと読んでいます。訳書がまだ22ページなので大学ノートmm×30行×30枚)の半分まで来たので、今度はもっと前まで戻ってゆっくり読み直す(余白のメモも含め)時間を取ろうかなと思っています。自分で書き込んでいるので、手書きのメモは結構頭に残っています。

余白に書くと言うことは、英語が難しかったか、訳文に自分の頭が追いつかなかったか、自分がその訳文を思いつかなかった箇所です。しかもそれは副詞や前置詞の表現であることがすくなくない。したがって、結構似たような表現にぶつかった時にこのノートに戻ることがあります。コンテキストが違って使えないこともありますし、合うとうまくフィットすることもあります。

このように1文(というか、原文と訳文の2文ですね)から色々なことを学べます。私が「書き写しに即効性が(音読に比べて)高い」とSNSに呟いたのはそういう意味です。

 

(8)1冊を続けることのメリット

毎日(というか、今の僕のスケジュールでは1日置き)続けると内容が「つながって」行きます。5分は短くて、毎回さらっと前日分ぐらいは見るし、随時復習の時間をとっています(その場合も5分ですから、ノートを眺めるだけです書き写しはできないことが多いです)。そうするとコンテキストがはっきりしてくるので新たな発見があります。

勉強になる表現を見つけるとノートに取る方は多いと思います。僕も別にノートをつくってそうしていますが、どうしてもそれは「単発の表現集」となり、結局「書いて終わり」になり、あとから見返すと(よほど長く書き写しておかないと)文脈が読めずに意味がわからなくなっている、ということはないでしょうか?もちろん書く作業そのものに意味はあるのですが、1冊のノートをゆっくり書き続けることによる「つながる」メリットは大きいと思います。

 

(9)本当は写経も毎日やりたい

現在は1日置きですが、本当は毎日やりたいと考えています。この1年ほどほぼ固定kしてきた翻訳ストレッチの構成を少し組み換えて毎日ベースにしたい。

 

・・・と、ここまでが手書き写しの実践紹介です。次回は音読(特に手書きとの比較)についてご紹介します。(続く)

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書き写しノート

 

いわゆる「写経」(原文と訳文の手書きでの書き写し)について(1)

FacebookTwitterに「書き写しは短期的な効果、音読は長期的な効果がある」と呟いたところ、「具体的にどういうことですか?」というご質問をいただきましたので、翻訳ストレッチとの絡みで、原文と訳文の手書きでの書き写しについて書かせていただきます。以下は翻訳者としての私の実践内容と感想ですが、別に翻訳でなくても、日本語の書き写しでも同じような効果があるのではないか、と思います。ご参考まで。

 

(1)始めた時期、時間、量、ノートの使い方など

これまでも参考になりそうな英文と訳文をノートに書き写す作業は時々やっていたのですが、「翻訳ストレッチ」の記録を見ると、原文と訳文の書き写しを定期的に始めたのは昨年の4月9日からでした。

テキストは『帳簿の世界史』村井章子訳(文藝春秋)の原文と訳文です。途中までは音読していたのですが、どなたかがフェイスブックに「写経がよい」とお書きになっているのを見て僕もやってみようと決意。

せっかくだから1冊全部書き写そうと思ったので大学ノートを買い、1ページ目から始めました。『世紀の空売り』の原文/訳文の音読と1日置きに取り組んでいます。所要時間は5分程度。したがって、5分で書き写せるのは1回でせいぜい1文か2文です。それからほぼ10カ月。現在22ページですから、このペース(1回5分、1日置き)で書き写しを続けると15年ぐらいかかりそうな雰囲気です。

ノートは見開きで左のページの左端から右ページの右端までを「1ページ」と考えます。

最初は左のページを上から下まで。次に右ページへと移る普通の使い方をしていましたが、3カ月ほど前から「見開き」で書き写すようになりました。この方が改行が少ないので書き写ししやすいし、一覧性が広がっているような気がします。

書き写す方法は1行置きです。つまり1行目に英語、2行目は日本語というわけです。元々は1段落ごとにまとめて書いていましたが、5分しかないので、1段落写す前に時間がやってくる。現実的には1文がせいぜい。だったら、段落ではなく1行置きにしようと思ったわけです。

 

(2)何を書き写すか

村井章子さんの訳書は、原文と訳文の音読を10年以上続けています。もう7~8冊は読み終えています。彼女が自分の分野で最も尊敬する翻訳者だから僕はこの本にしていますが、皆さんはご自分でお好きな、あるいは手本にしたい方を選ばれればよいのではないでしょうか。

 

(3)どう書き写すか。

まず原文の一文だけを音読します。そして書き写します。その際、「書き写す対象の文をなるべく見ないで書くこと」を少し意識します。「少し」と書いたのは、文章を覚えることが目的ではないからです。次に訳文を書き写します。原文と訳文が一対一で対応しないところがあれば、適当に切りますが、その際は「どうしてかな?」と思うようにしています。

やるとわかりますけれど、僕の場合は、日本語の方が「一気に書き写す」量が多いです。新井紀子先生が、小学校の低学年の授業で、子どもたちが先生が黒板に書いた文章を「どの程度の頻度で見上げながら書き写ししているか」を見ると子どもたちの読解力がある程度わかる、とご著書に書いておられましたが(「書き写す(翻訳ストレッチの一方法)」http://tbest.hatenablog.com/entry/2019/10/14/115137)、まず英語を書き写し、次に日本語を書き写すとそのこと、つまり自分がいかに英語ができないかを実感します。

 

(4)ただ書き写すだけから得られる「効果」

手書き写しによる効果とは「翻訳がうまくなった」とか「トライアルに通った」という即物的なものではなく、「学びが実感できる」ということだと思います。

原文を手で書き写すだけでも、

①音読では、意識上では読み飛ばすことが多いが、書くと全部(三単現のsも、単数、複数も、定冠詞も冠詞も)書かなければならないので、こういった機能語を意識せざるを得ない。たとえばタイプは慣れてくると指が勝手に動くことが多いのですが、手は勝手に動かない、意識的な行為なので1キャラクターもおろそかにならない。訳文を写す時にも同じことが言えて、

②「そのまま」(漢字は漢字、ひらがなは平仮名)を書き写すので助詞は抜けないし、さらにそれと漢字の「開く」「閉じる」がはっきりわかる。これはワープロの自動変換がないことの効用だと思います。③訳文の場合は、「だ」「である」、句読点の使い方もはっきり意識します。(続く)

下訳について

「下訳使うなんて信じられない」

柴田元幸著『僕は翻訳についてこう考えています 柴田元幸の意見100』アルク社、p130)

これは結構有名な発言で、その後に「何で他人に自分に代わって遊んでもらわなきゃいけないのか」と続く。村上春樹さんも同じだと。これを読むたびに思い出すのは、数年前に、あるビジネス雑誌の編集長からお伺いした話。「(故)山岡洋一さんほどフェアな翻訳者を僕は知りません。まず、原則として下訳を使いませんでした。締め切りや量でどうしても他の人に下訳っぽいことをお願いしなければならないときには共訳にするか、あとがきで手伝ってくれた人のお名前を必ず出す。そして各人の担当ページをきっちり計算して、印税をその量に比例して分けておられた。最後にご自分で全体を見て手を入れておられるのにですよ」。良い悪いの話は横に置き、柴田先生と山岡さんの違いは、「その翻訳に生活がかかっている(「仕事」)か、かかっていない(「遊び」)か」ということだと思う。

しかし「僕は東大教授としての給料があったから出版翻訳ができた」と公言されている柴田先生。だからこそ翻訳を「遊びだ」と仰っているわけであって、「下訳使うなんて・・・」という言葉のウラ側には、「下訳も正当なサービスなのだ。安易に安く買いたたくな」という、山岡さんと同じ思想が流れていると僕は思っています。