金融翻訳者の日記/A Translator's Ledger

自営業者として独立して十数年の翻訳者が綴る日々の活動記録と雑感。

時制について(翻訳ストレッチの教材から)

時制について考える興味深い文章に出会った。

(以下引用)
目が覚める。しばらくして目覚まし時計が鳴る。ラジオをつける。コーヒーを沸かす。コンピュータを起こす。顔を洗う。そして、わたしは昨日書いた詞を読み返した。と、ここまで書いて気がついた。初めの六つの文章を現在形で書いて、七つ目を過去形にした。七つ目の行為だけが過去に起こったからそうするのではない。時制を変えたことで、一連の動作の連なりを、七つ目の行為で一度とめて、そこにスポットライトを当てるのだ。
しばらくして目覚まし時計が鳴った。ラジオをつけた。コーヒーを沸かした。コンピュータを起こした。顔を洗った。そして、わたしは昨日書いた詞を読み返す。今度は時制を逆にしてみた。こう書いても内容は変わらない。スポットライトが当たる感じも変わらない。ただ、ライトの色が違うのだ。(ここまで)
多和田葉子著『言葉と歩く日記』(岩波新書)p70)
https://www.amazon.co.jp/dp/4004314658

筆者はこの文章の後、ドイツ語は日本語のように時制でスポットライトを変えるということはなく、客観的時間を想定していると指摘する。要するにドイツ語が現在形なら日本語も現在形、ドイツ語が過去形なら日本語も過去形とは機械的には行かないということだろう。この文章を読みながら、この関係は英語と日本語にも言えるのではないかと思った。そう言えば、柴田元幸さんがどこかに書いておられた、と思って柴田元幸著『翻訳教室』(新書館)をめくっていたら見つかりました。

(以下引用)
(原文が過去形の場合の訳し方に関する学生からの質問に対して)
柴田:翻訳の入門書なんかを読むと、過去形が「~た」「~した」が続くと日本語として美しくないから、適宜現在形を挟みましょうみたいなことが書いてあったりする。でも機械的にそうするのは小説をよむってことを無視しているとしか言いようがなくて、現在形を挟むのがふさわしい文章とふさわしくない文章があるんだよね。基本的には、語り手と人物の距離の問題です。「十月だというのにもうずいぶん寒い」と「儒学だというのにもうずいぶん寒かった」では、やっぱり「寒い」って言う方が登場人物の中に入った感じがする。だから、語り手が登場人物に距離を置かず、寄り添っている場合には現在形は似合う。距離を置いて冷ややかに見ている場合には似合わない。だからこの(レイモンド)カーヴァーの文章では異様に似合わないんです。(ここまで)
(『翻訳教室』pp93-94)

多和田さんは自分のエッセイ(語り手=登場人物)、柴田さんは小説の語り手の話をしている部分は理解した上で乱暴にまとめちゃうと、英語が過去形で、書かれている内容が過去だということが分かっている時に、日本語でそれをどう表現するかは、書き手の立場と書いている事実と書き手との距離による、ということでしょうか。いずれにせよ、「英語が過去形だから日本語も過去表現で」という考え方に凝り固まってはいけないということだろう。

ちなみに僕の手がけている金融翻訳(英語で書かれたマーケット情報の日本人向けレポート)では、英語の時制がどうかを把握することが最も重要であることは間違いないが、扱う文章が圧倒的に「事実」で、書き手の心情を推し量る文章はほとんどないので、英語が過去なら日本語も過去表現の文章になります。CIO(最高投資責任者)のエッセイとかになると別ですが。

 

*両書とも翻訳ストレッチの教材です。