金融翻訳者の日記/A Translator's Ledger

自営業者として独立して十数年の翻訳者が綴る日々の活動記録と雑感。

年賀状あれこれ

・昨年12月に60歳になったからかな、「今年(つまり昨年末)は年賀状を減らそう!」と決意して、義理だけで出していた(惰性で:住所録ソフトでつい面倒で削除していなかった)先を思い切ってバサッと切り、「まあ、もうお付き合いすることはないなあ」と思った先には送るのをやめ、「この人とは浅くてもいいから関係を続けていこう」と思う人だけを残したところ、結局50数通になった。

・宛先と差出人、裏面の定型的なご挨拶文句(2021年 あけましておめでとう)は印刷にして、それぞれ相手の顔を思い浮かべながら自分なりに簡単なメッセージを書いた。昨年甥っ子の結婚式に招かれた際、引き出物に僕宛のメッセージが入っていた。どうも出席者全員に、それぞれ宛ての感謝のメッセージを手書きで書いたらしい。息子によると最近のはやりらしいが、それでもそれなりに感動したことを年賀状に一言ずつ書き入れながら思い出した。

・そう思って出したからだろうか。こんな思いは出す側の身勝手だとは知りつつも、元日から今日までに届いた年賀状を眺めていると他人からの年賀状にはいくつか気になる点が出てくる。

・僕みたいに個人営業をしている人間は、年賀状も営業用資料に近いと長く考えてきたのであまり他人様のことを言えた義理ではないのだが、役所や会社勤めの友人からの(個人的な)年賀状に、毎年、自分の組織内での肩書きを書いてくる人が何人かいる。僕らの年齢になると役員になる者もいて、ご丁寧に「担当」までわざわざ書いてある。引っ越しや異動の挨拶ならともかく、友人宛ての年賀状に自分の肩書きを知らせる必要性がどこまであるのだろう?こいつは、本当に引退したら「前〇〇長」「元〇〇顧問」とか書き続けるのだろうか?・・・などと思ってしまうのは特に肩書きや地位に縁のない僕の僻み根性なのだろうか。

・葉書の裏面に、近況報告をビッシリ書いてくる(つまり、手書きの余地がない)印刷物のような年賀状もちょっと。僕もかつて1年か2年、友人の真似をしてそうしたことがあるけど止めました。あれって究極の手抜きだもの。自分と自分の家族はこんなことしてますあんなことしてます、僕たち私たちこんなに充実して幸せなの、見て聞いて!と一方的にまくし立てられている気分になってくる。そんなに事細かく別に知りたいとは思わないよ。せっかく送ってくれるのなら、一言でいい、相手だけに対する自分からのメッセージを込めてほしい、と読む側は考えてしまう。

・私の妻は毎年、「大変、大変!」と言いながら、毎年丸1日かけて年賀状を書いている。定型的な印刷をすると、裏面に一定のスペースをつくり、一人1人の相手に対する思いを書くようにしているのだという。だから相手の方のお子さんの名前や年齢も調べることもある。昔は家族の写真を送るのが我が家の定番で、実際昨年2月、コロナ騒ぎが本格化する前に家族旅行をした際に、年賀状用の家族写真も撮ってあったのだが、今年は止めることにした。一番大きな理由はコロナ禍ではあったが、年末が近づくにつれ喪中の案内が来るようになると、僕らの年齢になるとご家族が病気だったりご不幸にあったりされた方もいらっしゃることに改めて気づいたからだ。僕は定型の文句にしたが、妻は相手の「こうだろう」という想像に基づいて裏面のデザインを変え、一枚一枚吟味して書いていた。「負担だわ~」と言いながら、年に1度の年賀状書きを大事にしたいそう。今年は自分がメッセージを(自分なりに真面目に)個別に書くようになってその意味を改めて知った。

・年賀状を送ったら、メールやライン、ショートメールで返信を送ってきた人が何人かいた。どこかなじめない。一手間省かれているみたいでね。先に送る方が親切の押し売り的要素があるし、僕が古いのかも知れないけど。何となく。

・そういえば今年は「〇〇会社▲▲部の□□」さんからの年賀状がほとんどなかった。自宅勤務なので「仕事納めの年賀状書き」がなかったせいだね。資源の無駄遣いの削減になったかもと思いつつ、逆に会社を代表して送ってくれた方に感謝の気持ちが沸いたりして。

・以上、「他人の振り見て我が振り直せ」の気持ちで、もらった時に抱いたちょっとした違和感を書きました。いずれも僕自身が送り手として「やった」経験あります。過去を反省しつつ、来年の自分の年賀状書きに生かしたい。