金融翻訳者の日記/A Translator's Ledger

自営業者として独立して十数年の翻訳者が綴る日々の活動記録と雑感。

M校長先生の思い出(2016年1月26日)

今から40年ほど前のお話。

埼玉県立U高校の京都奈良修学旅行最終日の旅館はさながら宴会場だった。

初日、2日目は大人しかったと思うが、日が経つにつれて遠慮がなくなり、最終日になると缶ビールを1、2杯は開けて乾杯ぐらいはどの部屋でも普通に行われていた。先生方も一応部屋に点検に来るのだが真っ赤な顔で、「こら~早く寝ろ!」とか何とか言いながら、部屋に充満していたアルコールの臭いを咎め立することもなかったと思う。要するに見てみぬ振りだった。とはいえさすがにタバコの煙は立たなかったし、アル中で救急車なんて騒ぎにはならなかった。その辺がいわゆる進学校の生徒で、どこかで歯止めが効いていたのですね。

問題が発覚したのは修学旅行後である。

同じ旅館に泊まっていた他の学校の教師からクレームが出たとの話が流れた。噂では教育委員会にまでは伝わったとの事だった。つまり表沙汰になった。

しかし、「修学旅行中のU高生が旅館で宴会」・・・は記事にならなかった。

当時はその程度は「まあまあ・・・・」という雰囲気があったのかもしれないし、県内に張り巡らされた強力なOB人脈を駆使してもみ消しがあったのかもしれない。

いずれにせよ何らかの処分があることを大半の生徒が覚悟した。

で、修学旅行から2、3日たった頃だったかな。職員会議も長引いていただろうか。何しろ朝からただならぬ雰囲気の後で、確か校長先生自らだったと思う。2年生の各教室に次のような放送が流れた。

「先日の修学旅行で自分はアルコールを飲んだと自覚している学生は今すぐ体育館に集まってください」

クラスの半分以上が体育館に向かったのではないだろうか。

ちなみに僕はお酒にも女性にも強烈に奥手だったのと、好奇心はあったものの自ら手をだすほどの勇気がなかったのと、たまたま毎晩トランプ(ナポレオン)に夢中になっていたこともあって酒を飲まなかった。「お前も飲めよ~」と言われたらどうなっていたかわからない。僕が飲まなかったのは、気が弱かったのと運が良かっただけです。

で2時間ぐらいたったかな。クラスメートが皆戻ってきたのだが、多くはうちひしがれた表情で、泣いている奴もいたと思う。「あ~大変だったんだ」と半ば同情、なかば無責任に「どうだった?」と話を聞いた校長先生の講話は、僕たちの予想と想像を根本から覆すものだった。

M校長先生は「そういう行動を取らせてしまった責任は私にある」と生徒たちに謝ったというのだ。そして「諸君は自らこの体育館に来たことで自らの行動の責任を取った。一方、修学旅行中に諸君にあのような行動を取らせた責任は校長である私にあるのだから、諸君を処分しない」

U第一女子高から転任されて半年あまり。生徒とともに掃除をし、体育の授業に参加し、年に1度の競歩ラソン(50キロ)に参加してすべての関門をクリアして完走を果たした。授業をサボって一女の体育祭にのぞきにいった学生がM校長に見つかり「ヤバイ!」と思ったら「やあ、今日は天気がよくてよかったねえ。ご苦労さん」とおっしゃるような人だった(←これは僕ではありません)。集会や学校行事などで「校長訓話」の時間になると拍手が起きるのは前の校長と変わらなかったが、常に物静かな話しぶりで全員が聞き入ってしまう。話し終わると拍手はいつもどおりにせよ、それは揶揄ではなく賞賛の拍手だったと思う。退任された後は新設の私立高校の校長をされていたと聞く。理想の教育者とは?なんて答えはわからないけれども、M先生がその一人であったことは間違いない。

昨年9月の卒業後35年会での近況報告では「M校長先生お元気です」と聞いていた。

そのM先生、前田耕平先生がお亡くなりになったとのメールが今朝来た。

心から残念です。合掌。

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