金融翻訳者の日記/A Translator's Ledger

自営業者として独立して十数年の翻訳者が綴る日々の活動記録と雑感。

自分の引き出しを埋める努力(2013年11月)

同じような理解度の英文のはずなのに「翻訳が上手く行った」と自分でも思い他人からもそう言われる時と、「和訳としては正しいんだけどどうにもしっくり来ない」という不満がどこかに残る(完全には満足しない)翻訳になるのはどういうわけだろう?

アウトプットするとは自分の引き出しの中にある諸々の知識や技術を編集して外に出す行為だと思うのだが、引き出しの中には十分な量の知識なり技量が万遍なく詰まっているわけではなくて、濃淡、というか凸凹がある。

アウトプットするときに「十分詰まった」引き出しを使えていると訳文に対する評価とその改定案が様々に出てきてある意味「豊かな」表現ができるのだが、たまたま「薄い」引き出しに当たってしまうといくら絞りだそうとしても出てこない。そういうことなのではないか?

翻訳が上手くなるには翻訳をするのが一番だ。

・・・というのは上記における編集力が高まるという意味では一面の真理ではあるが、しかし引き出しの中に何も詰まっていなければ編集のしようがない。

引き出しを埋める意図的な努力をしないと。

それを嬉々としてやってしまい努力とも感じない人を天才と言うんだろうけれど悲しいかな自分にはそれがないので。