金融翻訳者の日記/A Translator's Ledger

自営業者として独立して十数年の翻訳者が綴る日々の活動記録と雑感。

柴田元幸先生の講演会メモ(2016年10月)

 (ご注意)僕が自分のために書いたメモです。僕が聞いたことのまとめですので、解釈に誤りがあった場合等の文章責任は僕にあります。
  
 [翻訳全般に関すること]
 翻訳は趣味。仕事と思ってやったことはない。幸い給料をもらえる身分だったので、いやなこと(大学における先生業以外の雑用)をなるべく減らして好きな翻訳に時間をかけてきた。給料がもらえたのでお金のことを考えて翻訳したことはない。(実に羨ましいご身分だと思った)。 
 
 辞書は、一つの語を引く度に一つの辞書を見るのが基本。電子辞書がメインで、必要に応じ紙の辞書。パソコンで串刺し検索をすることはあるが、パソコンは好きではなく、あまり立ち上げない。リーダーズがあれば何とかなると思っている。英語の俗語についてはUrban dictionaryが最高である。 
 
 原稿は手書きで書く。なるべくパソコンを見たくないのと、自分の字が好きだから。以前はボールペンで書いていたが、今は万年筆。原稿用紙ではなく、普通の紙に書いている。(実は、原稿で書くことにより文体の違いを感じるか?という質問をすべきだったのだが、つい聴きはぐった(後悔))   
 
  [ 翻訳技術に関すること ]
  翻訳はまずは直訳。原文に書かれていることを全部、律儀に拾うのが基本。あとで見直して工夫していく。←経験的にはこれがベストのアプローチだと思う。 
 
  原文の意味がわからない場合も、とりあえず訳して先に進み、あとで見直しの時に考える。初訳の段階で何時間も呻吟しない。
  
 指導者としての経験から・・・いつまでもグジグジと、あれこれ訳文をいじくり回している人の方が(エイヤ、コレだ!と潔く決めてしまう人よりも)伸びる。  
 翻訳学校で勉強されている方々の方が(学生に比べると)読んだときの通りがよい(読みやすい)という印象。ただし小説の原文がすべて美しいとは限らない。原文はすべて美しいはず、と誤解されているのかもしれない(←ただし、その後で、「昔とは違い、今の読者は読みにくい日本語を我慢してくれないので、勢い分かりやすい日本語に傾く」ともおっしゃっていました)。 
 
 翻訳者は著者の代理ではなく、読者の代表。なので固有名詞や読み方について著者に尋ねることはあっても、文章の意味やメッセージを尋ねることはない。あくまでも読者としての解釈を貫く。読者として読み取ったことをすべて翻訳に反映されるべき。 
 
 言葉の反復、韻、擬態語等は、原文で読んだときと日本語で読んだときの印象が等価であることを原則とする。したがって、同じ言葉の反復の方が良いときもあれば、表現を変えた方がよい場合もある(杓子定規にならないこと)。シャレ笑わせるのでであれば、言葉そのものを訳すと言うよりも、訳文を読み終わったときに同じような笑いが起きるような表現を選ぶ。 
 
 英語の小説は、(a)昔は地の文を過去形で表現するものが多かったが、最近は(b)「著者の目の前で今起きていること」を表現するために現在形を使う小説が目立ってきた。さらに(c)そういう意識とは関係なく現在形で書かれている小説も多い。いずれにせよ、原文が現在形であれば、訳文も「現在起きている」という日本語表現(日本語を現在形にせよ、とはおっしゃっていなかった、というのが鈴木の印象です)で行くのが良いと思う。 **ちなみに、先生はテキストを(c)のノリでお話しになっていたと思うのだが、実は途中から過去形になって、現在と過去が対比される(つまりテキストは(b)だった)ので、なおさら今起きている表現を使った方がよい。過去形の箇所まで行かなかったので先生この点をお忘れになったのかと鈴木は思った。 
 
 原文がアングロサクソン系の言葉は大和言葉、ラテン系の言葉は漢語で訳すようにしている(ただし、杓子定規にはならないように)。 
 
 擬態語は1文につき一つを自分なりの原則としている。
 
 原文を音読するのは好きなのでよくする。自分の訳したものを音読することはまずない。ただし、できればほかの人に読んでもらうと良いかも。経験的には、耳で聞いて分かりやすい訳文の方が読んでも分かりやすい。  
 
  以上  

tbest.hatenablog.com

マッチ率で割引を要請してくる飜訳会社にどう対応するか

(以下は「マッチ率で割引を要請された場合、どう対処すればよいか?」というNさんからご質問に対する回答である)。

僕のTM(翻訳メモリ)の使い方はかなり少数派らしい、ということをまずお断りします。僕は自分の過去訳のパターンを見るためだけに使っていて、支給されたTMを使って翻訳をした経験がほぼないのです。

いや、正確に言いますと、実は翻訳メモリを支給され、マッチ率に応じて翻訳単価を割り引くという仕事のオファーを受けたことはありますが、その仕事を受注したことはありません。翻訳メモリを支給され、私がそこで比較的マッチ率の高いものを「参考として使い、支給されたものを書き換える」ことを条件に仕事を受けたことはあります(割引なし)。なお、僕の専門分野は金融です。

その仕事を受けた時は、支給される翻訳メモリは「用語集」「言い回し集」として使わせてもらうというスタンスでした。つまり、原文に翻訳メモリとまったく同じ英語表現があって、それに対応する支給された日本語表現をそこの箇所に使うことが適当だと僕が判断した場合に限って使う、ということです。

さらに、そもそも、例えばbookは「本」という用語集が支給されたからといって、bookが出てくるたびに「本」と訳すかどうかはわからないわけ。「それ」かもしれないし「あれ」かもしれないし、訳さないかもしれない。そういったことを考えた上で最終的に「本」という名詞を訳語になる場合もあるでしょう。しかしそれを決めるのは翻訳会社ではなく僕なのだから、たまたま「bookは本」というTMが支給されて原文にbookがあったからと言って割り引きされるいわれはないわけです。

ではたとえば、

This is a book. は前後関係や前の言葉遣いその他諸々がどう変わっても、どんなに不自然でも「これは本である」とするルールを翻訳会社が決めて、This is a table. のtable部分だけを訳してください、マッチ率は75%ですので75%割り引きますので、と言ってきたら?

僕の答えはタダ一つ。

「お前が社内でやれよ」

・・・・・とやんわりと言うわけです。

Nさんのお付き合いになっている翻訳会社が「安くするためには手を抜いてもいい」と思っているような感じをもし抱かれたのなら、ほかのご商売との関係もあると思いますが、なるべく早くその会社とは縁を切った方が良いと思います。

もちろん、「言うは易く行うは難し」です。どこかの会社と縁を切って収入を維持するためには、別の会社とのご縁をつくる必要があるわけで、それはそれで大変だとは思うのですが、

そこで負けたら自分の翻訳がおかしくなる(レべルが間違いなく落ちる)

そう思って歯を食いしばってその方向に進まれるのがよいかと思います(だから、まず新しい翻訳会社のトライアルを受けまくって受かってから縁を切ってもよいとおもう)。

この世の中にはヘンな会社もあるかもしれないが、良心的な会社もいくつもあります。たとえば私がもう10年以上付き合っているある翻訳会社の場合、和英翻訳では日本人翻訳者を一切使わない方針を採っていますし、翻訳メモリも使っていません。

トライアルを受ける段階では分からないけれども、付き合いが始まると分かってくるのではないかなあ。

『ブレイクアウト・ネーションズ:「これから来る国」はどこか? 』に対する単行本出版3年後の書評

3年前に単行本(原書はその1年以上前)、昨年文庫化した『ブレイクアウト・ネーションズ』に、その調査手法と執筆姿勢に焦点を当てた好意的な書評がアマゾンに載った。

書き手の方の了解を得ていないが、すでに定価の10分の1以下になってしまった書籍の書評に埋もれさせておくのはもったいないと思い、以下にコピーします。ご関心のある方は古本でどうぞ(データがすでに古いため、送料込みで300円台で買えます)(余談:文体からすると、この書き手、もしかしたら僕のよく知っている人かもしれない。機会があれば直接お尋ねするつもりです)。

(以下引用)

投稿者 珈琲 投稿日 2016/8/17

現場主義・実証主義の説得力

双日総研エコノミスト吉崎達彦氏のブログ記事で、ルチル・シャルマ『ブレイクアウト・ネーションズ』ハヤカワ文庫、2015.4.20 を知り、早速購入、通読した。吉崎氏のおっしゃる通り、これはとても興味深い書であった。
 
著者は新興国を対象とする投資ファンドの専門家で、15年以上も年間の半分以上を新興国に過ごして、徹底して現地の様子を直接見分して考え抜くという方針を貫いてきた人物である。机上の議論ではなく、徹底した現地主義・現場主義の臨場感から、ビジネスの複雑さ、ビジネスに関わる要因の多様さ、などを肌身で感じ、ビジネスが単純な解答のない世界であることを骨身に滲みて熟知していることがわかる。

この著者のような地に這いつくばったような実践的で泥臭い議論からみると、先頃一躍話題となった「ピケティの格差の議論」などは、それなりに傾聽する価値はあるとは思うものの、人間の経済活動のごく一部のみに限定した小さな議論であることをひしひしと感じる。つまりピケティの議論は、やはり「分配のみの議論」に過ぎないことを改めて思うのである。もちろん分配という問題もとても大切ではあるが、それだけの議論では、そもそも分配の対象となる富の獲得・蓄積ができないのである。

この書を読みながらふと思い出したのが、四半世紀以前に読んだJ.K.ガルブレイス、スタニスラフ・メンシコフ『資本主義、共産主義、そして共存』ダイヤモンド社、1989 であった。社会主義を至高と信じつつも資本主義の動向に真摯に関心をもち続けたソ連のリベラル派経済学者と、自由主義・資本主義アメリカの代表的なリベラル派経済学者との紳士的で融和的な対談だが、静かで穏やかな対話からは、不思議に社会主義と資本主義の超えがたい溝が感じられた。東欧経済、社会主義経済の陥落からすでに四半世紀以上が経過し、今では社会主義・資本主義などという枠組みで議論することもほとんどなくなってしまった。一方で、それぞれの新興国で主流となっているそれぞれの経済も、そのころの資本主義と社会主義との溝以上に、大きく異なる性質と傾向をもっているようだ。

ルチル・シャルマは、とくに新興国において、経済に対する政治のあり方、経済政策、政治状況の寄与がきわめて大きいとする。そして、グローバル化した現代の経済状況は、最近の10年間で大きく変わったともいう。現場経験にもとづく彼の議論には、とても説得性がある。

もうひとつ、15年ほど以前に読んだ デビッド.S.ランデス『強国論』三笠書房、1999 を思い出す。ランデスは、経済のパフォーマンスを決める決定的要因は、人種、民族などの生物的あるいは言語的属性にはなく、その国家がもつ「文化」、すなわち経済的行動を規定する文化傾向である、とする。つまり文化として経済活動に向いている国家と、そうでない国家がある、とする。たとえば、キリスト教とくにプロテスタントをベースに勤勉を文化とする西欧国家は経済活動に成功しやすいが、イスラム教の文化を尊重しすぎる国家郡はほとんど経済成長できない、などというものである。この議論は、ある意味あまりに単純に思えるが、その反面現実の世界を見ると、意外に鋭い説得性もある。たとえば、中国についで人口が多くさまざまなポテンシャルに恵まれていると思われるインドが、中国についで今後急速に台頭し経済大国になる、と10年以上以前から言われ続けてきた。しかしランデスの分析では、インドの宗教・カースト制度にもとづく経済文化が、もの作りを軽蔑するなど強い偏りがあることから、経済成長が容易でない、としている。これは私のわずかな国際ビジネス・貿易関連でのインドとのつきあいからも、首肯できる事実である。また、大部分のイスラム教徒の生産現場での勤務態度をみても、経済活動への適性の問題は、誰の眼にも明らかに思える。

ルチル・シャルマに言わせれば、経済はそんなに単純ではなく、経済のパフォーマンスは、政治情勢や国際情勢によって大きく変化するものであり、ランデスのいう「経済に関わる文化」はその情勢の一部をなすに過ぎない、ということかも知れない。たしかに、教育熱心でモラールが高いなど、ランデスや私自身の自らの経験から高いポテンシャルを認めるベトナムは、ルチル・シャルマが指摘する経済政策上の失敗によって、最近は苦境に陥っているようだ。
私が今回ルチル・シャルマの書を読んだあと、漠然と想定し納得しうるイメージは、国家の根深い背景としては、やはりランデスのいうような経済文化があって、国家レベルでの経済活動の可能性はかなり規定されていると思う。しかしルチル・シャルマがいうように、政治情勢によっては経済活動が大きく影響を受けるし、それによって成功・失敗がもたらされることも事実である。ただ、ルチル・シャルマが重視する政治情勢という要因は、彼もいうとおり10年間も安定することは稀であるため、結果としてマクロ経済は予測が非常に困難であり、また結果として変動が大きい。このルチル・シャルマの書でさえ、3年前の2012年の刊行物であり、それから現在までの間に、すでにかなりの範囲で様子が変わってしまっていることを改めて思う。

国家的なレベルの経済パフォーマンスを考えるときは、ランデスのいう「国民的な経済文化」を通奏低音のような規定要因として考慮しつつ、最近・現在のその国の政治状況をできるだけ詳しく見つめた上で考える、ということが正攻法なのだろう。
現場主義の生々しい事実にもとづいた迫力ある叙述であり、その内容はかなり重いのだが、そのわりに読み進めやすいのは、著者のプレゼンテーション能力だけでなく、「変化が大きい政治状況」という本質的・本源的な「軽さ」がひとつの原因だろう。ランデスの主張からは、かなり宿命論的になってしまって希望がないが、シャルマの主張からは、いつでもだれでも未来が期待できるように感じられる。ともかく、印象の深い書であった。(引用終わり)

 

Amazon CAPTCHA

 

 

 

パッチワーク翻訳の罪(2016年10月)

L社は担当者のP氏がヘッドハンティングでD社に移り、後任のS氏になってから、部分訳の割合が増えた。マンスリーレポートなので前月と同じ表現の箇所が3~4割。場合によっては8割の箇所もある。P氏の時にはそういう変更とは関係なく、「全部訳してください」と言われていたので、原文が変わっていなくても訳語や訳文を変更することはあった。またまったく同じ文章でも「その文」の位置が変わると訳文も変わることは多い

前者の場合には「変更理由」をつけて納品していた。また前月と微妙に原文が変わっている箇所については、原文の変更に伴って訳文を変えた部分、変えなかった部分についてもコメントをつけていた。

S氏は違う。原文の「変わった部分だけを訳してくれ」という要請が多い。

「パッチワーク翻訳はあとで面倒なことになるかもしれませんよ」と警告はしておいたが、「私が編集段階で見るから大丈夫です」ということだった。「鈴木さんは、その部分だけ訳していただければ結構です」。

「欧州周縁国エクスポージャーの大きい先進国負け組銘柄」

という、まあ、これくらいの長さの用語(訳語)があったとしよう。

たった300ワードの原稿1ページの中に、上の訳語が5回も入っている訳文(つまり、ここまでの原文が一致しているのだ)とセットで最後の「まとめ」部分を訳してくれ、という要請が今月の文章にあった。

この日本語を使うというので、僕の「まとめ」でもほぼ同じ用語を使って提出して電話しましたよ。こういうのって他社批判になると思うのでできればやりたくないんだけどあまりにもみっともないので・・・。「そういえば、ちょっと多いかなという気がして、確か私減らしたんです」「じぇじぇじぇじぇ・・・これでも?」「はい・・・」

ここから先のやりとりは省略します。この訳語の原文も同じように5回以上使っていたらしいので書き手も相当センス悪い。第2に、同じ原文に同じ訳語をそのまま当てはめた脳天気な翻訳者(よく採用されたな?)。そして第3に、Sさんもかなり優秀なんだけど、大統領選のディベートもあったし、忙しすぎて感覚が鈍ったのかも。パッチワーク編集になれると感覚がおかしくなってくる部分があるのかも。

「我々は、『こんなん英語か書いてありましたで~』という英文解釈を出しているのではなくて、原文を主たる素材に、日本人読者に向けて、日本語のレポートを書いて、出しているんですよね」と、悪いなと思いつつ言わずもがなの説教をしてしまう。パッチワーク翻訳をやらせているとこうなる見本みたいなお話しでした。

「大企業病」に関する2題(2016年9月)

大企業病:その1)

某上場企業との取引でのミニマムチャージを2万円(消費税別)としている。2年ぐらい前からそうしている。

2万1600円の先方の過払い(当社のもらいすぎ)の疑いを7月に見つけたのは相方。「お父さん、2万1600円多すぎのような気がする」。受注記録とメールを総てひっくり返すが見当たらない。念のため8月の入金タイミングを待って確信。

原因は想像がついた。3月に当社から出した請求書の費目が間違っていることにこちらが気づき、謝罪して対応を伺ったところ、「正しい請求書をもう一度出してくれ」と言われて出した。

これがダブルカウントされたのではないか?

先方の担当者J女史からメール「よろしくご対応のほどお願いします」
そうじゃないでしょ。同社の手続きに従うから対応してほしいとお願いしたのだ、と丁寧にメール。

J女史「対応させていただきます」

3週間なしのつぶて。2週間前別件で電話の折、「あれ、どうなりました?」「あれ?スミマセーン。鈴木さんにお振込口座をお知らせするんでしたっけ?」。

「そうではなくて、貴社のような大会社ならこういう場合の規程があるはずだから、その手続きに従った方がよいのではないですか?」と丁寧に言う。「そうですよねー。スミマセン」

で1週間経過。J女史から翻訳依頼来る。

「それはお引き受けしますが、先日の2万1600円どうします?今回のから差し引きます?」「あ、そうしてもらえます~?」

あんたは馬鹿か?・・・と言いたいのをグッとこらえて、

「いや、僕はいいんですけど、貴社の手続き上大丈夫ですか?いいですか、貴社はメールのやりとりの後に、見積書、発注書、請け書、納品書、請求書を全部紙で残している会社サンですよ。それでは社内で通らないんじゃないですか?」「あ、そうですよねー。そうします」

で10日ほどたった昨日。J女史の部下のUさんから電話。Uさんは新婚ホヤホヤで、先週新婚旅行に行っていたはずの優秀な新人である。

「Jにお知らせいただいた件、お待たせしまして申し訳ありません。つきましてはご返金いただく件ですが、担当部署に連絡しなければならない関係上、明日または明後日にお振り込みいただきたいのですがよろしいでしょうか?」「別にいいですけど・・・」
「で、いつお振り込みいただけるでしょうか?」
「では明日」

なんで向こうのミスなのにこっちがあっちの都合に合わせなきゃならんのかな~と思っているところにまた電話。

「Uでございます。申し訳ございません。お振り込み明日とのことでございましたが、こちらの部長名で請求書を明日発行することになりましたので、誠に勝手ながら明後日にお振り込みいただきたくおねがいしたいのですが」

「はいはい、わかりました。ちなみに振込手数料は差し引きますよ、いいですね?」
「え、そ、それは・・・」とひるむU女史。
「だってそっちのミスでしょ。何で振り込み日まで指定されて、振り込み料こっちが負担しなきゃなんないの?」
「あの、お振り込みの際は、振り込み元が振込料金をご負担いただくのが当社の規定、また社会通念でございまして・・・」
と言われたところでさすがにこちらも堪忍袋の緒が切れた。

「いいかい、Uさん、そりゃないだろう。元々の経緯はこうだ(とこれまでの経緯を説明)・・・君が逆の立場だったらどう思う?おかしいだろ?」
「は、はい、確かに・・・オカシイと思います」
「こういうのをね、出入り業者いじめって言うんだよ。僕が怒るのもわかるだろ?しかもミスをしたのは君の上司だ。自分のミスの尻ぬぐいをさせてJさんは何やってんだ?ふざけるのもいい加減にしてくれよ」
「少々お待ちを・・・」

ここで初めてJさんが登場。僕が経緯をあらためて説明して、ようやく、初めて自分のミスを認めた。「・・・そうでした。本当に申し訳ありません」。

「あのさ、Uさんだって可愛そうだろ。今週新婚旅行から帰ってきたらこんなくだらない案件の処理を押しつけられて・・・」

ホントこの会社、大企業病にかかってるのかJ女史が無能無責任なのか、両方なのか。
この会社との取引が今後どうなるかは分かりませんが、久しぶりに腹が立った案件ということで。

大企業病:その2)
2年ほど前、某社の担当者に年賀状を送った。1月の下旬にそのまま返送されてきた。葉書の表面にはこうあった。

「この者は、他部署に転勤となりました」

しかも、これはスタンプだったんだ。

「Q思考」を知ると、世界の見かたが完全に変わる!──話題の翻訳書、訳者が語る! 第4回『Q思考』

(以下は、https://courrier.jp/news/archives/57035/からの転載です)

 

考えかたが変わる「たった3つの問い」

著者のウォーレン・バーガー氏はデザイン思考、イノベーションを得意とするジャーナリストです。

ジャーナリストにとって最も大切な能力の1つが尋ねること、聞き出すことです。
バーガー氏は質問のプロとして、「イノベーション」をテーマに世界各国のデザイナー、発明家、エンジニアや経営者にさまざまな質問をぶつけ、話を聞き出していたのですが、そのうちに彼らのほうこそ「質問の達人」であることに気がついたそうです。

そこで今度は「質問」をテーマにしたホームページを立ち上げ、読者と意見交換しながら世界中のイノベーション企業の経営者に改めて取材を重ねました。こうしてまとめたのが、この『Q思考 シンプルな問いで本質をつかむ思考法』ダイヤモンド社)なのです。

本書の原題は、A More Beautiful Question:The Power of Inquiry to Spark Breakthrough Ideasです。そのまま訳すと「より美しいクエスチョン(question):突破力のある思考に火をつける探求力」ということになります。

この「クエスチョン」とはどういう意味でしょうか?
冒頭で私は「質問」という言葉を使いましたが、日本語で「質問」あるいは「問う」というと、「人」を対象にして「相手から何かを引き出す力」という意味になります。実際、ジャーナリストの仕事の多くは、この意味でのクエスチョン、つまり質問を意味しています。

けれども英語の「question」の意味はこれよりもはるかに広いのです。目の前に起きているありとあらゆる物や事、現象はもちろん、時に自分自身、そして他人に対して何かを問うことを意味しています。
問い、疑問、自問、質問としてのクエスチョン。日本語の訳書の題名を『Q思考』にしたのは、こういう事情があったからです。QとはもちろんQuestionのことです。

そしてバーガー氏はこう断言します。

イノベーションを起こすための鍵は『答え』ではなく、『クエスチョン』のほうにある」

さまざまな形式のクエスチョンのうち、特に「なぜ?」「もし~だったら?」「どうすれば?」と問い続ける姿勢の重要性を、豊富な事例を通じて紹介していくのが本書の骨子となっています。

ではそのクエスチョンは、限られた天才やイノベーターにしか発することができない特別なものなのでしょうか?

「子どもの視線」で物事を見る方法

目の前に起きていることを素直に受け取り、自分が少しでも「あれ?」と思ったらその疑問をどこまでも追求する。
実は、誰にでもそういう経験があります。

そう、幼い子どものころです。
本書では「子ども」、それも4歳ぐらいまでの好奇心旺盛な子どもたちが、イノベーションの観点からいかに優れた質問をしているのか、至るところで紹介しています。

例をあげると、米国の有名なコメディアンが書いたスタンダップ・コメディ(漫談)向けの台本があります。

最初は「パパ、今日はどうしてお出かけしないの?」という無邪気な子どもの疑問から始まります。
そのうちに「どうして雨が降ってるの?」「どうやって雲ができるの?」「どうしてパパは雲ができる仕組みを知らないの?」「どうしてパパは学校でちゃんとお勉強しなかったの?」「どうしておじいちゃんとおばあちゃんはパパの学校の成績を気にしなかったの?」「どうしてパパのご先祖様はそんなだったの?」と、大人を次々と問い詰める質問に発展していき、最後は大人が「いいから黙ってなさい!」と堪忍袋の緒を切らしてしまうところで終わる、というネタです。

ハーバード大学の児童心理学者、ポール・ハリスは、子どもは2歳から5歳までのあいだにおよそ4万の質問をする、という調査結果を発表しています。
最初は物の名前などたんなる事実についての質問ですが、月齢30ヵ月(2歳半)ごろから説明を求めはじめ、4歳になるころまでに、質問の大半は事実についてではなく、説明を求めるものになる、というのです。

子どもたちは「これはこうに違いない」という大人のやりがちな「レッテル貼り」をすることもなく、知らないことを「知らない」と素直に認め、知りたいことをどんどん追求していきます。

しつこく食い下がるのは、なにも大人を困らせてやろうとか、たんに会話を長引かせようとしているのではありません。物理学者のニール・タイソン博士はこの年齢の子どもたちを「科学者」と呼び、大人に尋ね続ける姿勢の理由を「物事のいちばん底にたどり着こうとしているからだ」と説明します。

ミシガン大学での実験によると、子どもたちは実際に説明を与えられると、賛成したり、関連質問をしたりして自分の好奇心を満たそうとする一方で、満足のいく答えをもらわないと、不満が高まって最初の質問を繰り返す傾向が高かったそうです。

ハーバード大学院生の硬直した思考

本書の第3章では、幼稚園の子どもたちとハーバードMBAの大学院生のチームに未調理のパスタ、糸、テープ、マシュマロを与え、制限時間内にできるだけ高いタワーを組み立てさせるという競争をさせた実験(マシュマロはタワーの頂上に刺します)が紹介されています。

学生たちは、この勝負に大まじめに取り組みました。勝利を目指して分析的なアプローチを採用し、パスタ、糸、テープをどう組み合わせれば最も高いタワーをつくれるか、甲論乙駁の議論を重ねたのです。

ところが、徹底的な計画と討論をしたにもかかわらず、何度慎重に設計し組み立ててもタワーは崩れてしまい、つくり直しているあいだに制限時間が来てしまいました(リーダーを誰にするかの相談にも、ずいぶん時間をかけたそうです)。

一方、幼稚園児たちはどうしたでしょうか? スタートするとさっそく組み立てはじめました。そのため、「ある方法を試し、うまくいかなかったらすぐに別の方法を試す」といった試行錯誤の数が、学生たちよりもずっと多かったのです。

子どもたちはすべてを予想しようとはせずに、作業しながら失敗から学んでいきました。
そして、この勝負で見事にハーバードの大学院生を打ち破ったのです。

この実験は、「先の見えない状況で難しい課題に取り組むにはどう進めるべきか」について、大きな示唆を与えてくれます。


幼稚園児たちの行動から、私たちは「何がいいのか、どんどんやってみることに、代わるものはない」ということを学べるはずだ、と筆者は主張します。

子どもの「なぜ?」が偉大な発明を生む

エドウィン・ランドは米ポラロイド社の創業者で、20世紀初頭のスティーブ・ジョブズにもたとえられる偉大な発明家です。
ランドがインスタントカメラを発明したきっかけも、幼い子どもが発した素朴な疑問でした。

ニューメキシコサンタフェで家族と休暇を過ごしていたとき、ランドはお気に入りのカメラを使って愛娘ジェニファーの写真を何枚か撮っていました。
当時、フィルムの現像は暗室か現像ラボに持っていく以外に方法はなく、ランドはそれを当たり前のことと思っていました。ところが、わずか3歳だった幼いジェニファーはちょっと違った見かたをしていました。

「写真ができあがるまでに、なぜこんなに待たなければいけないの?」

そう父親に尋ねたのです。そして娘の質問に答えられない自分に愕然としたランドは猛然と頭と身体を動かしはじめ、ジェニファーの質問から5年後にインスタントカメラを発明します。

著者はこのエピソードから、専門家でない人や門外漢のほうが専門家よりも素晴らしい質問をできるということを指摘します。

そして、「なぜ?」という疑問を持てるようになりたければ、好奇心旺盛で思ったことをすぐ口に出す3歳か4歳の子どもを連れ歩くか、好奇心の強い子どものように世の中を見られるよう、自分の視点を調整するよう努力しなさい、と説きます。

「学校教育」で定着させられた思考法から抜け出す

では、4歳まであれほど活発に「なぜ?」「なぜ?」を繰り返していた子どもたちが、6歳になるころには、どうして口を閉ざすようなってしまうのでしょうか?

筆者はそれを、伝統的な学校教育のせいだと考えているようです。

学校に入り学年が進むうちに、先生や親から教えられた「大人だけが知っている正しい答え」を覚えなさいと半ば強制され、授業の進行を妨げるような質問はできない雰囲気のなかで過ごすうちに、本来持っていた「なぜ?」の気持ちをなくして静かになっていく、というのです。

ここで筆者が取り上げているのは、日本の学校のことではありません。私たち日本人からみればあれほど自由に、自分の意見を発言しているように見える、米国の学校なのです。
そうして大人になったエリートたちが大企業に入り、出世競争に打ち勝ち経営者になると、どうなるでしょうか。

1990年代、ハイテク関連やその他の産業で成功し、市場をリードしていた大企業の多くが、新興企業に次々と追い抜かれていきました。
新興企業の製品の質はたいしたことはなかったのですが、大企業の製品よりもシンプルなつくりで、便利で、安かったのです。

一方、大企業の側は、顧客により良いサービスを提供し、製品の改善を進め、利益率を伸ばすという、ビジネススクールで教わった通りの「正しいビジネス活動」にいそしんでいました。
世の中を変えるほどのイノベーションの本当の芽が、実は低価格市場に生まれていたにもかかわらず、大企業はそれを一顧だにしませんでした。

技術がどんどん高度化していく市場において、値段が高く、仕組みが複雑で、利用する人が限定されている製品を手ごろな値段で使いやすくすると、大衆市場が一気に口を開いてゲームのルールが変わってしまい、既存のトップ企業を倒せる可能性が生まれる――。
これが、ハーバード大学のクリステンセン教授が提唱した「イノベーションのジレンマ」です。

そんな時代が始まっていたのに、大企業はそれに対応できなかったのです。

では、どうして新興企業だけがこの機会をとらえることができたのでしょう? そして大企業はなぜ、「イノベーションのジレンマ」を見つけられなかったのでしょう?

クリステンセン教授の答えは明快です。

「大企業の経営者たちは『問う力』を鍛えられていなかったのだ」

将来の幹部候補生たちは、かつてビジネススクールで完全に合理的で、しかも実用的な経営理論を身につけたはずです。ところが世界が変わって古い理論が通用しなくなると、ほとんどのリーダーは現実から一歩下がって次のような問いを発することができなかった、というのです。

「なぜ、もうこれが通用しないのか?」

「ビジネス市場がひっくり返り、いままで底にあったものが頭上に来たらどうなるだろう? そしていま起きていることが本当にそういうことだとしたら?」

「私の会社は新しいビジネスの現実にどう対応すべきだろう? 古い理論をどう書き換えればよいのか?」

ほとんどのビジネスリーダーは何の前提条件もつけずに、ゼロベースでビジネスのありかたを問い直そうとはしません。彼らは特に「正しい問い」に向き合うことができなくなってしまいました。

そう、大企業経営者の多くは、伝統的な学校教育のなかで正しい答えを出すことに全力を尽くし、企業に入ってからは定められた目標(答え)を達成することに切磋琢磨しているうちに、「子どもの視点」をなくしてしまっていたのです。

「Q思考」は誰でもできる

「子どもの心」を持つことがいかに重要か、おわかりいただけたのではないでしょうか。
では、子どもの心を持つことはそれほどに難しいことなのでしょうか?

筆者はノースダコタ大学のダーリヤ・ザベリナが、2組の大人のグループに行った簡単な実験を紹介しています。
1つのグループには、学校が休みになった「7歳の子ども」になりきってほしいと指示し、別のグループには指示を出しませんでした(そのままの自分でいてもらった)。

そしてこの2つのグループに創造力テストを受けてもらったところ、「子どものように考える」グループのほうが優れた独自の発想をし、「柔軟で、自由な思考力」を発揮したというのです。
ここに大きなヒントがありそうです。

人間の思考は柔軟性が高いので、ちょっとした心がけと簡単な訓練で、どんな人でもQ思考の世界に入ることができる、と筆者は説きます。

「自分が子どものような気分になって考えてみよう」

「『ブレイン・ストーミング』ならぬ『Qストーミング(クエスチョン・ストーミング)』をやってみよう」

「『ミッション・ステートメント』ではなく『ミッション・クエスチョン』をつくってみよう」

など、その気になれば誰でもすぐに始められる具体的な実践方法が、本書には紹介されています。

このように、本書『Q思考』では、「Q思考を生活のなかで実践するための基本的な視点と背景」「ビジネスで質問をする方法や技術、それらの訓練法」そして「人生における『美しい質問』とのつきあいかたや心構え」などを包括的に論じています。

しかも、グーグルやナイキはもちろんのこと、日本でも民泊の解禁とともに話題となっているエアビーアンドビーやオンラインストリームで有名なネットフリックスの創業秘話などが紹介されているので、「いま、世の中で起きていること」の背景を知ることもできるでしょう。
本文に挿入されている33本のコラムもすべて、イノベーションのきっかけとなった実話を紹介しています。

この世の中には、「○○解答法」「××の基礎知識」「△△の方法」といった本があふれています。
私たちが学校で学ぶ教科書も、問題集もすべて、与えられた問題に正しい答えを見つけたり、覚えたりすることを目的としています。

ところが、「クエスチョン」について書かれた本をご覧になったことはあるでしょうか? おそらく本書は、世界で初めての「質問の教科書」、いや「Q思考の教科書」と言えます。

皆さんも本書をお読みになり、ここに紹介されている方法を実際に試し、日常生活に取り入れることで、優れた質問家(クエスチョナー)、そして素晴らしきイノベーターへの第一歩を踏み出してみてください。

Text by Tatsuya Suzuki
鈴木立哉 一橋大学社会学部卒業。コロンビア大学ビジネススクール修了(MBA)。野村証券勤務などを経て2002年から翻訳業。訳書に『世界でいちばん大切にしたい会社』翔泳社)、『ブレイクアウトネーションズ』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)など。

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歯医者で聞いた話(2016年9月)

先週の金曜日に行き着けの歯医者さんから聞いた話。

「鈴木さん、歯を磨くとき、何回も何回もゆすいじゃ駄目ですよ」
「は?」
「せっかく残っている歯磨き粉のフッ素が落ちちゃうでしょ」
「え、じゃ、先生、歯磨きの時はちょろちょろっとゆすいで終わり?」
「そうです」「んなの初めて聞きましたよ」
「ほら、ウチの診察終わったら30分飲み食いしないでって言うでしょ」「ええ」
「あれと同じ」「えー」
「でも何となく気分がわるいんだったら、まずよ~く歯を磨いて、しっかりすすいだ後に、もう1回歯磨き粉を軽く塗って、軽く磨いて、軽くすすぐことをお奨めします」

皆様、それぞれの専門家の意見を聞いた上で、自己責任でお試しを。