金融翻訳者の日記/A Translator's Ledger

自営業者として独立して十数年の翻訳者が綴る日々の活動記録と雑感。

翻訳について語ることの難しさ(おまけ)

さっきの鴻巣さんのエッセイに関する文章で「訳文として表出するかどうかは、ソース言語(原文)とターゲット言語(訳文)の文化的背景の違いによると思う(文芸とノンフィクションで違いはあるかもしれない)」と書きましたが、分かりやすい例を挙げて若干の追加説明をしておきますね(同業者の方には改めて説明するまでもないことですが)。

(A)アメリカ人が生まれて初めて日本料理屋に入って酒を飲み、徳利をLiquor bottleと英語で表現し、それを日本語に訳す場合、

(A)日本料理店にある程度慣れたアメリカ人が日本料理屋に入って酒を飲み、徳利をSake bottleと英語で表現し、それを日本語に訳す場合、

(C)日本人が日本料理屋に入って酒を飲み、徳利で酒を飲んでいる様子をアメリカ人が英語で表現したものを日本語に訳す場合。

特に(A)と(B)の場合に(Liquor bottle/Sake bottle)を「徳利」と訳すか「日本酒を注ぐための小さなビン」と訳すか「日本酒用のボトル」と訳すか、は、全体の文脈や場面の背景を理解しないと無理。

一方(C)は「徳利」と訳すのが正解だと思う。『さゆり』(京都の舞妓が京都弁で話した内容をアメリカ人の歴史家が聞き取って英語で書いた小説の日本語訳)や、『浮き世の画家』(日本人が日本語で考えたはずの内容をカズオ・イシグロ氏が英語で書いた小説の日本語訳)の例を考えていただければ分かりやすいかも。

また、その日本料理店で寿司を握っていたChefを日本語にどう訳すかというのもなかなか難しいとおもいます(単純に「板前」あるいは「板長」とは訳せない)

 

『さゆり』アーサー・ゴールデン著、小川高義訳、文藝春秋(2004年)
『浮き世の画家』カズオ・イシグロ著、飛田茂雄訳、早川書店(2006年)