金融翻訳者の日記

自営業者として独立して十数年の翻訳者が綴る日々の活動記録と雑感。

長続きする自己啓発「翻訳ストレッチ」ー毎朝、仕事前に、手広く、コツコツとー(『翻訳事典2018-2019』から)

(以下は、『翻訳事典2018-2019』(アルク)に寄稿した原稿です。執筆からすでに2年ほどが経ち、使っている教材など細かい点はすこしずつ変わってきていますが、基本的な考え方は同じです。翻訳者の皆様の何かの参考になれば幸いです)。

 

毎朝、仕事前に、手広く、コツコツと 

― 長続きする自己啓発「翻訳ストレッチ」のご紹介 ― 

鈴木立哉

 

こんにちは、鈴木立哉です。現在16年目になる金融翻訳者です。本日は私がこの10年続けている自己啓発の取り組み方をご紹介させていただきます。

 

  • 朝の過ごし方

まず私の典型的な朝の様子をご紹介しましょう。

起床は4時30分~5時頃です。起きてから雑事を済ませてダイニングテーブルの椅子に腰掛けるのが30分~40分後ぐらい。

お茶を一杯飲んでまずは日本経済新聞のコラム「春秋」と朝日新聞の「天声人語」を音読します。その後日経、朝日の順にザッと20~30分ほど目を通し、それからいよいよ「翻訳ストレッチ」を始めます。

 

(1)最初の教材はMichael Lewis, The Big Short, W W Norton & Co Inc; Reprint, 2010とその訳書『世紀の空売り―世界経済の破綻に賭けた男たち』(東江一紀訳、文藝春秋)です。これを原文、訳文の順に1~2文ずつ音読します。訳語や訳文で「学べるな」と思う箇所があると原書の方に訳文を直接書き写したり別途メモを取ったりします。1日当たり1~2段落とゆっくりしたペースで読み進めます。

(2)次に、『誤訳の構造』『誤訳の典型』『誤訳の常識』(いずれも中原道喜著、聖文新社)のうちの1冊に取り組みます(3日で1サイクル)。赤ペンを持って大事だと思った箇所に丸をつけたり下線を引いたりしながら読んでいきます。『~構造』は現在4周目、『~典型』は3周目、『~常識』は2周目です。

(3)『折々のうた』(大岡信著、岩波新書)の音読。本書は詩人の大岡信さんが朝日新聞に連載していた詩歌の紹介を本にまとめたもので、本編は第9集まで。それ以外にもさまざまなシリーズが出ています。今は『第五 折々のうた』(5冊目)です。

(4)『翻訳力錬成テキストブック』(柴田耕太郎著、日外アソシエーツ)、またはThomas Piketty, Capital in the Twenty-First Century, Belknap Press: An Imprint of Harvard University Press, 2014 (Kindle版)とその訳本『21世紀の資本』(山形浩生ほか訳、みすず書房、2016年)原文、訳文の順に1段落ずつ、のいずれかを音読します。『テキストブック』と『21世紀の資本』を1日置きに取り組みます。

・・・以上がそれぞれ5分で計20~25分ぐらい。調理用タイマーで時間を管理しながら進めます。さらに

(5)『TOEIC BEYOND 990 超上級問題+プロの極意』(ヒロ前田著、TEX加藤他著、アルク、2015年)などの「TOEIC本」でリーディングとリスニングの勉強に取り組みます。時間は5分ではなく「午前7時まで」。したがって早起きをすると1時間ぐらいかけられますが、寝坊して15分で終わることも。さる事情でTOEICを受験せざるを得なくなって始めた8月から始めた受験勉強ですが、基礎英語力の維持に最適であることがわかり、受験後も勉強を続けることにしました。今後も3~4カ月に1度は受験する予定です。

 

翻訳ストレッチを7時に終えるとテレビ東京「モーニング・サテライト」の録画を見ながら朝食を取り、20分ぐらい散歩をして仕事部屋に入り、午前8時過ぎに仕事を始める、というのが典型的な私の朝の過ごし方です。起きてから朝食までのこのパターンはほぼ生活習慣化しています。仕事をしないと決めた日でも身体が勝手に(?)動きます。

 

もっともその内容はこの10年で大きく変わってきました。

 

2.最初は「不安」から

「翻訳ストレッチ」(原則5分単位で、音読中心にさまざまな教材を学ぶというスタイルの勉強)とは、運動選手ならだれでも行う本格練習前のストレッチにたとえた私の造語です。仕事を始める前に、前日までに身体についたコリとか歪みを矯正しようという発想です。

私の場合、独立して1年後から仕事が増えて忙しくなり、軌道に乗ったと思ったのは3年目ぐらいだったでしょうか。最初は仕事が増えることが嬉しく「翻訳力をつけるには仕事をするのが一番!」と来る日も来る日も締め切りをこなしていきましたが、半年ほどたつと、はたして自分は英語を読めているのか?分かりやすい日本語を書けているのか?自分の訳文には変な癖がついているのでは?という不安を感じるようになりました。当時も今も私の仕事はマクロ経済レポートやヘッジファンド等の投資家向け運用レポートが中心でした。運用会社による違いはあるとはいえ基本用語は同じですし、レポートによって「同じような文体」「同じような用語」の使い方を求められていました。仕事が「型にはまりやすい」性質を帯びていたのです。

普段から自己啓発の必要性を感じ参考になりそうな書籍を買い求めてはいたものの文字通りの「積ん読」で、改まって勉強の時間も取れず不安ばかりが募っていきました。独立して丸4年たった日に「これではまずい」と考え、まずは自分が最も恐れていた日本語の歪みを正そうと、学生時代からの大ファンですでに何度も読み返していた『深代淳郎の天声人語』(深代淳郎著 朝日新聞社)の書き写しを始めることにしたのです。1日分の天声人語の書き写しと音読に約25分かかります。この作業に取り組んでから仕事を始めるという生活を1年ほど続けました。

そのうちに「仕事前は意外と時間がつくれそうな」ことに気づきました。どうせ日中に勉強ができないのなら、短時間でもいいから仕事前にやってみようと、本棚に眠っていた参考書類を引っ張り出して少しずつ読み始めたのが今の翻訳ストレッチの原型です。

独立6年後(2008年7月)に、日本翻訳連盟主催のセミナーで講師をさせていただきました。その時のレジュメを読み返すと「勉強における心構え・・・毎日少しずつ繰り返すこと。暗記と理解の復習とを分けて考えること・・・勉強の基本的な方法は、暗記と読解力の養成」と書いてあります。

つまり「毎朝、仕事前に、コツコツと」という「翻訳ストレッチ」の基本的なスタイルは10年前に固まっていたのです。ただ、勉強とは「翻訳力をつけるもの」と考えていたので今よりも暗記を重視していました。優れた訳文を頭にたたき込んで仕事に活かすという発想です。セミナーでは私が当時使っていた『ビギナーのための法律英語』(日向尚人著、慶應義塾大学出版会)、『使える金融英語100のフレーズ』(柴田真一著、東洋経済新報社)、『英語リーディングの真実』(薬袋善郎、研究社)を使った勉強方法をご紹介しました。

 

3.試行錯誤を重ねながら徐々に現在のパターンへ

セミナー後の自己啓発の歩みを振り返ると、多くを頭にたたき込むことよりも、自分が美しい/素晴らしいと思う文章を味わうことや、「その場暗記」で自分の訳文の癖を取ることを徐々に重視するようになっていきました。「その場暗記」とは、あとから忘れてもよいから、とにもかくにもその時だけはお手本通りに口頭で訳せるよう訳書の訳文を覚える、という意味です。覚え続ける必要がないので「本1冊覚えるぞ!」みたいなプレッシャーはありません。自分がつい使ってしまう言い回しの悪い癖の是正にはうってつけのトレーニングではないかと思うようになりました。

どんなテキストから学ぶのか?何冊やるのかはあまり考えません。当初は私の専門にかかわる書籍だけを音読していましたが、そのうち、原書なのか、訳書なのか、翻訳のノウハウ本なのか、英語や日本語の文法書かにかかわらず「面白そうだな」「学びたいな」と思ったら取りあえず購入し、翻訳ストレッチの時間に「突っ込んでしまう」ようになりました。分野も経済書に文学書が加わり、カズオ・イシグロさんの原書/訳書、さらには藤沢周平向田邦子松本清張といった元々日本語で書かれた文章も音読するようになりました。ただし、翻訳ストレッチは原則として1つのテキストで5分と決め、細く長く取り組めればよいと気長に構えました。本が増えるとストレッチの時間が長くなります。そこで同じ本を毎日ではなく、2、3日に1度でもよいと考えるようになりました。いつまでに読み終えるという目標も定めませんから、例えば『大暴落1929』は一冊(原書と訳書ですから実際は2冊分)を音読するのに2年、『国家を破綻する』は3年半かかりました。

しかし「ちりも積もれば山となる」です。この10年で『日の名残り』の原書と訳書を2回、『わたしを話さないで』(いずれも土屋政雄訳、早川書房)、『大暴落1929』『国家は破綻する』『脱線FRB』(いずれも村井章子訳、日経BP)を1回ずつ、日本語作品も『父の詫び状』(向田邦子著、文春文庫)の3回を含め延べ2~30冊は読み終えていると思います。

数年前からは、日本語を書くことを意識した参考書も読み始めました。各種文章読本に加え、『日本語の作文技術』『中学生からの作文技術』(以上本多勝一著)『理科系の作文技術』(木下是雄著、中公新書)『超文章法』(野口悠紀雄著、中公新書)『「接続詞」の技術』(石黒圭著、実務教育出版)『24週日本語文法ツアー』(益岡隆著、くろしお出版)などです。

こうして7,8年ぐらい前からは(1)経済金融関係の原書と訳文の音読と検討、(2)ジャンルを問わず自分が美しいと思う原書と訳書の音読、(3)日本語のエッセイ等の音読、(4)翻訳論、翻訳に関するテキストの勉強、(5)その他の勉強(文章法や文法)というパターンに定着していましたが、今夏からTOEICの勉強が加わって冒頭に紹介した形に変わったわけです。

 

4. 毎日、仕事前に、少しずつ。

以上が、私がこれまでに取り組んできた自己啓発の遍歴です。長続きのコツで最も大事なポイントは毎日「仕事前に取り組む」ことではないかと思います。

「お昼休みに」とか「1日の仕事を終えてから」も試したこともあるのですが、仕事をいったん始めると合間に勉強をはさむ気持ちの余裕がなくなります。仕事を終えてからでは精も根も尽き果てて何もする気が起きません。あくまでも仕事を本格的に始める前に体調を整える「ストレッチ」として取り組むことが私にはしっくりきました。

長続きするためのコツ、というか注意点を挙げておきますと、教材には自分が真似したい文章を選ぶこと。「必要性」よりも「好き」を優先すること。日々の取り組みでは、仕事の忙しい時や疲れた時、あるいは宴会の翌朝に寝坊して1冊しか取り組まない日があっても、早起きできたので10冊選ぶ日があってもよい、と気軽に構えることだと思います。私の場合は「午前7時には朝食」に合わせてストレッチの数と量を調節しています。

 

5. 効果は?

翻訳ストレッチにはどういう効果があるのでしょうか?ここまでご紹介したように、最初は焦りから日本語の書き写しを始め、その後は「翻訳力をつけよう!」と意識して「お勉強」していた時期もあります。しかし、10年の試行錯誤を経た今、翻訳ストレッチの目指すものを改めて考えると「仕事前の歪みの是正」が一番近いのではないかと思います。仕事前に一流の文章を音読したり書き写したりして前日までの歪みや捻(ねじ)れを直し、新たな心と身体(?)で仕事を始める。まさに運動のストレッチと同じかも。その意味では、おかげさまで私が今でも10年前と変わらずお客さまから注文をいただけていることが「翻訳ストレッチの効果」と言えるのかもしれません。

 

お気軽に翻訳ストレッチ。これをお読みになったあなた、まずはご自分の本棚に積んでホコリの被っている、「買う時には読むぞ~と思ったはずの(?)」本を取り出し、並べ直しましょう。そして今日から始めてみませんか?毎日、仕事前に、少しずつ、できる範囲で。