金融翻訳者の日記

自営業者として独立して十数年の翻訳者が綴る日々の活動記録と雑感。

三島の『文章読本』は文章の「読み方」読本だった(『文章読本』を比べる)(2020年12月)

翻訳ストレッチでは、毎日15~16冊の中から3冊、とっかえひっかえ5分ずつ音読しているのだが、たまたまここに来て何冊か読み終わり、さて次は・・・と考えているうちに、今年は三島没後50年で映画も見たし、読本も数々出されているので、音読教材に入れて改めて読み始めたのが今日。恐らく学生時代に「見栄」で読んで以来なので、40年以上ぶりになるのではないかな。するとほぼ冒頭近くにこうあった。

(以下引用)
私はここでこの「文章読本」の目的を、読む側からの「文章読本」という点だけに限定した方が、目的も明確になり、素人文学に対する迷いを覚ますことになるとも思うのです。(「第1章 この文章読本の目的」三島由紀夫著『文章読本』(中公文庫)p10)

え~!!!とかなりのショックを受けた。だって、「文章読本」って、文章の「書き方」に関する手引き書だとず~っと思い込んでいたからだ。もしかしたら僕が「読本」という言葉の意味を根本的に考え違いをしていたのかと不安になり、本棚にあった谷崎本を引っ張り出してみた。

(以下引用)
私は、自分の長年の経験から割り出し、文章を作るのに最も必要な、そうして現代の口語文に最も欠けている根本の事項のみを種にして、この読本を書いた。その他の細かい点、修辞上の技巧等については、学校でも教えるであろうし、類書も多いことであるから、ここには説かない。いわばこの書は、「われわれ日本人が日本語の文章を書く心得」を記したのである。(谷崎潤一郎文章読本』(旺文社文庫)p7「はしがき」)

第二章が「文章の上達法」となっていることからも、本書は明らかに「文章の書き方」指南書だ。つまり、谷崎と三島は全然違う立場で同じタイトルの本を書いていたわけだ。谷崎本が野球のピッチャー向けならば、三島本はキャッチャー向けの本だった訳ね。念のために他の人のも見てみようと思って本棚を探してみると2冊出てき。

(以下引用)
すなはちわづか半世紀にも満たないうちに、文章の書き方、味はい方の手引きが五人の小説家(注:谷崎潤一郎川端康成三島由紀夫中村真一郎丸谷才一)によって作られるわけだが・・・(丸谷才一文章読本』(中公文庫)P7「第1章 小説家と日本語」)

ここだけだと丸谷さんは書き手側、読み手側両方の立場からの文章読本があったことを示唆しているが、丸谷本がどちらの立場の『文章読本』なのかはわからない。ところがその先に進むと

……しかし文章上達の秘訣はただ一つしかない(同書第二章「名文を読め」p20)

つまり、丸谷才一さんの『文章読本』も書き手側の本だったらしい。

我が家にはもう一冊、井上ひさし著『自家製 文章読本』がある。この冒頭の章「滑稽な冒険へ旅立つ前に」だけを読むと、丸谷才一さんの上の文章を引いた上で、

(以下引用)
すなわち、いま、よい文章を綴る作業は、過去と未来をしっかりと結び合わせる仕事にほかならない。もっといえば文章を綴ることで、わたしたちは歴史に参加するのである、と。(井上ひさし著『自家製 文章読本』(新潮文庫)「滑稽な冒険へ旅立つ前にP12)。

つまり恐らく井上さんは、文章の書き方本として同書を書いている。なお、僕は学生時代に川端康成本を読んだはずだけれども、我が家にはない。

谷崎と三島は全く逆の立場から同じ題名の本を書いていたなんて、恐らく日本文学史をご存知の方には常識なのだろう。ただ少なくとも僕にとっては結構衝撃的で、改めて各種『文章読本』を(それぞれの立場を理解した上で)読み直そうと思った次第。

*なお、「読本」を辞書で調べてみたところ、「 読みやすいようにやさしく書かれた入門書や解説書。「文章―」」(デジタル大辞泉©Shogakukan Inc.)とあった。少なくとも読本の意味を勘違いしていなかったことが確認できてホッとしました。