金融翻訳者の日記/A Translator's Ledger

自営業者として独立して十数年の翻訳者が綴る日々の活動記録と雑感。

「走れメロス」は「国語」か「芸術」か(2019年10月)

……中学以降、特に高校国語で勉強したのは、詩や古典も含めた文芸作品ばかりで、ほとんど芸術鑑賞だったという記憶をお持ちの方が多いのではないでしょうか。数学の文章題や理科の実験の手順書の正確な読み方を、国語の授業で教わった人など、ほとんどいないに違いありません。
(『AIに負けない子どもに育てる』p266 新井紀子著、東洋経済新報社

先日の天声人語にも、「高校国語の内容変更」に反対する文学者の方の意見が紹介されていた(「文芸誌の懸念」)。「実用的な文章が読める力は必要だろうけど、そんなものを国語の教材としてえんえんと教えるとは」という批判だ。

これに対して、新井先生は、「走れメロスを鑑賞」する前に、「走れメロスを読めるようになる」ことこそが本来「国語」という教科の目指すべきものだと主張し、引用文の前のページにも「法律上、文芸は音楽や美術と併記される『芸術枠』なのです」と指摘している。

僕は今の文部科学大臣は大嫌いだし、文部行政も信用していないが、この点に関しては、文科省の新方針(おそらく新井先生の主張の影響を受けている)ご指摘の方に分があると思う。

つまり日本ではこれまで、まともな国語教育(基本的な読み書きとは語彙を増やすことだけではない)が行われてこなかったというド本質の批判なのだ。かつて小田嶋隆さんがラジオで「日本におけるいわゆる国語教育は、英米におけるEnglishとは本質に異なる。一言で言えばそれは忖度教育だ」と喝破されていたのと同じ批判だ。それが冒頭の引用文に反映されていて、この印象に反対する人はほとんどいないのではないか。

「高校の国語 文学を軽視?」(新聞記事に覚えた違和感)(2019年10月) - 金融翻訳者の日記

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