金融翻訳者の日記/A Translator's Ledger

自営業者として独立して十数年の翻訳者が綴る日々の活動記録と雑感。

「国語」って何だろう:鑑賞の前にすることがある

①現代国語といえば小説や詩歌、評論だと思っていたが大きな変化が起きるかもしれない。……「実用的な文章が読める力は必要だろうけど、そんなものを国語の教材としてえんえんと教えるとは」。文學界9月号に歌人で元国語教師の俵万智さんが書いている。
(「天声人語」2019年8月17日日付朝日新聞

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②私たちのRST(リーディングスキルテスト)の全国調査で明らかになったのは、日本人の決定的な教科書読解力の不足です。読解力こそ、AIが最も苦手とする分野であることは、この本の中で再三述べてきました。
(『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』p272 新井紀子著 東洋経済新報社

*今朝の「天声人語」、書き出しこそ「高校の国語でこれから、文学が選択科目になる」だったのに、途中から「国語」(日本語の言葉の読解力を含めた運用能力)と「現代文学」(日本語で書かれた文芸を中心とした鑑賞能力)を(意図的かどうかはわからないが)を一緒くたにした議論を紹介して読者を混乱させている。
上の二つの文章は矛盾していない。恐らく新井さんに言わせれば「そもそも『読めていない』のに鑑賞なんかできますか?」ということだろう。別に鑑賞を否定しているわけではないが、順番が違うのでは?という問題提起だ。そのことと、高等学校において「現代文学」の時間が減ることへの嘆きとは別問題。同時に、「文学鑑賞をいつから始めるべきか」という別の重要な教育課題も想起される。

そんなことを考えていたら、数カ月前に小田島隆さんが
「日本のいわゆる『国語』教育は、作者の心情を問う問題が多い。『・・・という素振りを見せた主人公は、何をしたかったのですか?』と言った問題です。たとえば英米の小中学校のEnglish(彼らにとっての『国語』)ではそんなことを教えていませんよ。つまり日本人は小さい頃から大人になるまで忖度の勉強をしているようなものなんです」
とラジオでおっしゃっていたことを思い出した。恐らく小田嶋さんは、日本の初等教育に必要なのはまず「国語」教育であって、「現代文学」教育ではないこと。第2に「どう鑑賞するのか?」という(現代)国文学教育のあり方を問うていたのだと思う。これも重要だ。

いずれにせよ、国語教育と現代文学教育をどうすべきかという問題は、今の特に初等教育では「国語」の絶対的時間数が足りないことを示唆しているんじゃないかな。

時間割の時間は限られている。小学校に英語教育を導入している暇はないはずだと思うのだけれど。