金融翻訳者の日記

自営業者として独立して十数年の翻訳者が綴る日々の活動記録と雑感。

翻訳の添削業(?)ー複数の翻訳者によるマンスリー・プロジェクトの現場から(2018年6月)

「鈴木さん、翻訳の添削やったら?」と、ある方からアドバイスされた。

毎月某社レポートの校閲(まとめ役)を担当している。

複数の翻訳者の方の誤訳やら訳抜け、数字間違い等を随時直していく(優秀な方々なのであまりありません)のだが、普通の校正とちょっと違うのは、レポート全体の表現や言い回し、ロジックと、つまり他の翻訳者の皆さんとの間に矛盾が生じないように調節していくこと、だろうか。「この人のこの翻訳はここでは正しい」のだが、全体との統一感で修正させてもらうこともある。

もう一つ。翻訳者は(僕も含めて)どうしてもその月の、そのレポートの翻訳に集中しがちで、前月または前々月の他のレポートがどうだったかなどすべてチェックできないし、そんな暇もない。また限られた翻訳料で翻訳者にそこまでやってくれというのは酷である(なお発注者は、翻訳者の翻訳料金を固定したままで、1000ワードのレポートを訳すのに1万ワードを超えるレポートのバックナンバーを参考資料として与えてチェックせよなどという要求を暗黙的にでもすべきではない)。一方僕はこの仕事ではメインの校正者として毎月全レポートに目を通すので、この人の今月のこのレポートを、前々月の別の人のレポートを照らし合わせてチェックすることができる。これはすでに能力の問題ではなく役割分担なのね。

で、その修正の過程で、全体との統一感や翌月以降の表現に生かしてもらうために、気がついた点をコメント欄で提案しているわけです。大きく変更した場合には極力その理由を書いています。コメントは1000ワードで5~10カ所ぐらいになるかな(ちなみに僕が翻訳することもあり、その時には他の方に校正をお願いしています)。

その作業が終わると最終仕上げに回すと同時に、修正記録もコメントも全部くっつけて翻訳者の皆さんにも全部返して「鈴木が間違っているかもしれないから遠慮なく再修正してくれ」とのメッセージをつけている。「やっぱりあたしの方がいい!」とか、それ以外に気がついた点があったら言ってくれと。それで、彼または彼女の再修正案が来た場合には、そちらを優先させてホントの最終原稿にするという段取りです。

そうしたら、その翻訳者の方のお一人から、「鈴木さん、これ商売になるんじゃない?値段にもよるけど」と言われた。

プロの皆さん相手に「調整」はしているが「添削をご指導」しているなどとはつゆにも思っていなかったので正直ビックリしたのだが、自分のしていることを客観的にみるとそうとれないこともない。だとすると添削商売もあり?と思い始めた次第。

老後の本業(?)として、ちょっと考えてみよう。

(後記)補足しておくと、このレポートは毎月1万ワードぐらいあって締め切りが1週間なので、実際には校閲を複数の翻訳者で担当しています(僕が校閲する量が一番多いということ)。

つまり翻訳者Aさんの翻訳を翻訳者Bさんが校閲し、Bさんの分をCさんが、Cさんのの分をDさんが校閲し・・・来月は逆、なんてこともしょっちゅうです。そしてその最初の校閲が終わったあと、もう一回全体を見て訳文や表現等を校閲するのが僕のメインの仕事。実はその後に、日本語だけを見て日本語を直してもらう方にもお願いしています(この方も本業は翻訳者。ただし英語は見ないで、日本語の文章だけを見てわかる、わからない、わかりやすい、わかりにくいを判断してほしいとお願いしてある)。その方からいただいたコメントを確認して、さらに直すか直さないかの判断は僕がします(つまり最終責任者は私です)。

ちなみに僕は普段は翻訳をせず「補欠」、つまり翻訳量が通常よりも多かったり、翻訳者のスケジュールの都合でその月に翻訳できる量が少なかったり、あるいは各翻訳者の翻訳が始まってから「お客様からこの部分も追加で訳してほしい」という要望が来ることがあって、そういった場合に翻訳します。「遊軍」といってもいいかも。「量が多すぎ」「人数足りない」「突然追加」は意外とある(数カ月に一度ぐらい)ので、遊軍の翻訳者(=つまり僕)を常に一名確保しておくという仕組みは、かなり有効ではないかと思っています。

僕が訳すときは当然他の翻訳者に校閲してもらいます。当然ギタギタになって(?)返ってきます。同じ月にその人の翻訳を僕が校閲していることもある。お互いに勉強し合うという立場で直していくという感じかな。その結果、「僕、直してあげる人、あなた直される人」という変な(?)上下関係を生まなくなっていると思います。

このプロジェクトがスタートして現在4年目。試行錯誤を重ねながら、少しずつ、すこしずつ僕が頭の中で描いていた理想的な実務翻訳の受注体制に近づいているのではないかな?という自惚れも感じないでもありません。(2021年6月22日記)。