金融翻訳者の日記/A Translator's Ledger

自営業者として独立して十数年の翻訳者が綴る日々の活動記録と雑感。

グリーン組織に傾きかかった頃

今思うと、あれは私のいた会社が「多元型<グリーン>組織」になりかかった瞬間ではなかったか。

1997年、N證券が総会屋がらみの不祥事で社長が交代した折、各営業店の予算が廃止された時期があった。「あの」N證券でだ。

支店長の人事評定も人事部から切り離し、営業担当役員の合議で決めることにしたのだ。当時、僕は営業企画部の営業企画課長。部長のFさんや営業担当取締役の間の「廊下トンビ」としてその実現のための下働きをしていたのである。

米国の大学院を卒業し、まさに棚からぼた餅式に常務から3段飛びで昇進した当時のU社長は部店長会議の席で断言した。「お客さまのために努力した結果として収入はついてくるものであって、上から押し付けるものであってはならない」と。社員の人事評定システムも根本から変わった。やはり、今から振り返ると一歩グリーン組織に近づこうという意志が(動機はともかく)働いたのだった。

収支予算をなくす。

これは当時としては革命的な判断で、感覚的に言えば、当時の会社は一瞬静かになり、その後に若手を中心に称賛の嵐が起こり、部店長クラスは困惑し、半信半疑ながらも事態を前向きに飲み込んだと思う。しかしそれから3年ほどたって、現場(つまり支店長)から「収入予算を復活してくれ」との声が強くなり結局元の収支予算方式、人事評定方式に戻ったのだという(僕は不祥事が発生し、新方式になってから一年後に退職した)。上からの命令をひたすらやり遂げるという文化から抜け切れていなかった。一見理想型がてきたけれどもいったいどうすればよいのかがだれにもわからなかったのではないだろうか。だから根付けなかった。時代もあったのかもしれない。

(以上の記述は私の記憶の限り、事実だと思って書いているが思い違いはあるかもしれない。文章責任は私にある)。

特に日本の会社は世間体を気にするので、自分の会社がよほど大きな危機に瀕するか(当時の野村はまさにそうだったわけだが)、ティール組織が実際に業績を伸ばしているのを目の前にしないと、特に大きな会社がそちら方向に動きにくいのかもしれない。そして動いても定着までには相当の時間がかかり、根気もいる。僕がその動きを目の当たりにして思ったのは、トップの号令一下は必要だが、十分条件ではない、ということだ。