金融翻訳者の日記/A Translator's Ledger

自営業者として独立して十数年の翻訳者が綴る日々の活動記録と雑感。

あるべき翻訳教室とは?(2018年1月)

ふと思ったんだが、翻訳を教えるって、自分の生活をある程度さらけ出すことではないか。そうしないと説得力を持たないのではないか、と昨晩から今日にかけて感じた。合理的な根拠はない。

先日の柴田元幸先生も、土屋政雄先生も、一昨年聞いた村井章子先生も、お三方の「実生活」が透けて見えていたような気がする。ちなみに研究社の編集をされながら青山ブックセンターで文芸翻訳を手弁当でなさっている金子靖先生なんか、補習(懇親会)も含めれば「その壮絶な、いや修行僧のような、激烈な文芸編集者生活」そのものだかんね(最高に褒めているんです、一応誤解のなきようお願いします)。

だから聞いてて納得感がある。思わず唸っちゃう。自分も付いていきたい。そう思うんじゃないかな、いや僕はそう思ってる。

それに対して、今目の前にいる講師の話している内容と、彼または彼女の実生活が乖離しているように感じた瞬間、つまり今目の前に展開されている「舞台」が、単なるその場限りの「お飾り」である、と聴衆(または生徒が)が感じ取った刹那に、その教室の魅力は失せてしまうのではないか?

なぜなら翻訳は地道な努力賜物、つまり時間がかかる仕事なので、どうしてもそのノウハウや技術には「実生活」が反映されるはずだからだ。

幸い僕がこの2年ほどに参加したセミナーの中に、「講師によるその場限りの、お高くとまったお飾り」「講師の自慢話のための舞台」「口当たりのよいだけの、反論はできないが薄っぺらい『あるべき論』」はなかったけれども。