金融翻訳者の日記/A Translator's Ledger

自営業者として独立して十数年の翻訳者が綴る日々の活動記録と雑感。

『ブレイクアウト・ネーションズ:「これから来る国」はどこか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫) 』 訳者あとがき(2015年3月に執筆)

 

本書はルチール・シャルマ(Ruchil Sharma)氏によるBreakout Nations In Pursuit of the Next Economic Miraclesの邦訳(文庫版)である。なお原著は2012年5月にハードカバー版が、一年後の2013年4月にペーパーバック版が刊行されたが、ペーパーバックの刊行にあたってエピローグ(最終章)が追加された。また本書の単行本は原著発行10カ月後の2013年2月に発行された。今回の文庫化に併せてエピローグの邦訳を追加した。エピローグの原稿は2012年年末に執筆されているので、この部分についてはほぼ2年4カ月遅れで翻訳されたことになる。読者の皆さんには是非その点を念頭に置いてお読みいただければと思う。

著者は、モルガンスタンレー投資顧問で新興市場グローバルマクロの責任者を務めるインド出身の運用責任者である。新興国投資の専門家としてはすでに有名で「ニューズウィーク」「ウォール・ストリート・ジャーナル」「フォーリン・ポリシー」等で積極的に情報発信を行ってきた。そのため処女出版であるにもかかわらず本書への注目度は高く「ウォール・ストリート・ジャーナル」紙等の書評で取り上げられ、さらにフォーリン・ポリシー誌の「2012年の読むべき二一冊の本」、「パブリッシャーズ・ウィークリー」誌のトップ10ビジネス書にも選出された。

 

本書では、著者がこれまでに実際に何度も訪問し、見聞し、分析し、世の中に紹介し、そして投資をしてきた新興国の中から次の「ブレイクアウト・ネーション(競合国から突出した経済成長を成し遂げられる国)」がどこかを探し出そうとするプロセスと結論が述べられている。取り上げられた国々は幅広く中国、インド、ブラジル、メキシコ、ロシア、ヨーロッパ(ハンガリーチェコポーランド)、トルコ、東南アジア(インドネシア、フィリピン、タイ、マレーシア)、東アジア(韓国、台湾)、南アフリカ、第四世界(ウガンダモザンビークイラクスリランカベトナム、ナイジェリア、ペルシャ湾岸諸国)など。

まずプロローグで本書の目的を明らかにし、第一章で「新興国」、「成長」そして「ブレイクアウト・ネーション」等の定義が行われる。第二章以降の各章は、著者が直接経験したエピソード、場面、景色、そして各地で仕入れた物語や噂話で書き起こされる。プロローグでも触れられているが、毎月一週間を新興諸国で過ごすという著者は、「机上の空論」を排して現場主義を貫く行動派である。各国のトップや企業経営者との面談はもちろんのこと、なるべく陸路を走り、路地裏を歩きながら(陸路を使えない場合にはヘリや飛行機を利用して)投資対象国の様々な場所や人々を直接訪ね、現地の人々の話に耳を傾け、市場を肌で感じようとする。そうして時に歴史を振り返り、データをひも解きながら各国の政治や経済、人口動態、社会状況を、「現場からの知恵」で会得した手法を適用し、様々なルールを縦横に駆使して分析と考察を進めていく。単行本では14章で一応のまとめとなっているが、今回追加されたエピローグでは原著ハードカバー版執筆後1年の更新情報を織り交ぜながら、14章では示唆にとどまっていた「ブレイクアウトネーションズ」としてのアメリカ合衆国と欧州を中心の現状と将来展望が描かれる。

 

冒頭にも紹介したように、本書で追加されたエピローグ原稿は二〇一二年の年末に書かれており、すでに2年以上が経過している。この間にはだれもが予想すらしていなかった劇的なイベントが世界中で頻発した。本書で取り上げた主要国について「その後の」動きを(ほんの一部)紹介しておくと・・・

エジプトでは史上初めて民主的な選挙でムスリム同胞団が政権を握っていたものの2013年7月に軍事クーデターが勃発し政権は倒壊。その後大統領選挙を経て現在はエジプト国軍総司令官を務めていたシーシー氏が大統領職にある。タイではシナワトラ首相が2014年5月に失職しその後軍事クーデターが起きて、現在も軍政下に置かれている。トルコでは2014年に初の直接選挙による大統領選挙が実施され、公正発展党(AKP)のエルドアン首相が当選した。

 

ブラジルは2011年にルーラ大統領の支持基盤を引き継いで就任したジルマ・ルセフ大統領が2014年、低迷する経済の再建を公約して大接戦の末再選を決めた。ところが今年1月に二期目がスタートした後も景気が一向に良くならず、さらに国営石油会社をめぐる汚職疑惑が拡大して支持率の急落にあえいでいる。ロシアは、経済はともかくプーチン政権の国内支持基盤は盤石に見える。2014年2月、ウクライナでロシア寄りの姿勢を見せていたヤヌコーヴィチ大統領(当時)に反対する市民と警察の間の武力衝突がきっかけでウクライナ騒乱が発生。その後、クリミア半島の帰属を巡ってロシアとウクライナ間、ひいては欧米、そして世界を震撼させる政治危機に発展し、事実上ロシアの主導の下にクリミア共和国が成立。ロシアへの編入宣言が行われたが、未だ国際的な承認を得られておらず、ウクライナと親ロシア派との事実上の内戦状態も二年にわたり、つい先頃(2015年2月12日)に停戦合意が締結されたばかりである。インドでは2014年5月、10年ぶりに政権交代が起きて「改革」を訴えるモディ首相が誕生。州知事時代のトップダウン方式の指導力を発揮して行財政改革に大鉈を振るい始めた。中国は周体制が国内基盤固めの真っ最中。実質国内総生産GDP)成長率の目標を7年連続で8%とした後、2012年から7.5%に引き下げ14年まで維持したが、2015年3月、李克強首相は今年の実質経済成長率の目標を前年より0.5ポイント低い7%前後にすると表明した。

そして我が国日本は2012年12月の総選挙で自由民主党が3年3カ月振りに政権を奪って第二次安倍内閣が発足。「アベノミクス」と「黒田バズーカ」が世界を駆け巡った・・・。

表面的な状況は時と共に大きく変わっているけれども、訳者の身びいきを承知であえて申し上げれば、筆者の各国に対する基本的な「見立て」は変わらないのではないか。今回エピローグを訳しながら改めてそう感じた。その意味で本書の息は長いと思っている。

 

本書は多くの人々の協力がなければなしえ得なかった。まず、一見するとカレント・トピックスだけを取り扱っているように見える本書の価値を改めて評価し、文庫本化の決断をしていただいた株式会社早川書房第一編集部の皆さん。本書の単行本ではブログの転載を快くご承諾いただいた双日総合研究所のチーフ・エコノミストである吉崎達彦さんには、今回は解説を書き下ろして頂くという幸運に恵まれた。文庫化に当たって、なお残っていた訳者の誤りや不備を適切にご指摘いただいた担当編集者金子裕美子さん。そして、相も変わらず貧乏暇なしの不摂生な生活を、陰に日向になりながら叱咤激励してくれた妻暁子に心から感謝したい。ありがとうございました。

 

2015年3月                                                鈴木立哉