金融翻訳者の日記/A Translator's Ledger

自営業者として独立して十数年の翻訳者が綴る日々の活動記録と雑感。

「こんな時でも、明るさまでは失わずにいたい」:2018~2020年3月13日に出会った言葉

(1)2020年3月13日
こんな時でも、明るさまでは失わずにいたい。
(「サッカー人として モラルの線引き」三浦知良本日付日本経済新聞

(2)2019年3月12日
何年も会わないのに、ずっと心のなかの指標となってくださるひとがいる。私にとっては、中学の頃、美術を受け持っていただいた丸山先生がそうだ。
……
……下校しかけていると、先生に「弁当買ってきてくれへん?」と呼び止められたことがある。スーパーは学校のすぐ隣だし、二つ返事で引き受けて、お金を受け取ろうとすると、財布を丸々託された。ずっしりと分厚い財布には、現金だけでなくクレジットカードなども入っている。驚きつつも、自分は信頼されているのだ、と感じ、ひどく嬉(うれ)しかった。(信じるチカラ 木ノ下裕一 3月9日付日経新聞 夕刊)

(3)2018年3月12日
Giving is living.  モリー・シュワルツ
・・・(中略)・・・「取る<テイク>」のは、自分が死にかけている感じ、「与える<ギブ>のは、生きている感じがする(、と)。
(本日付朝日新聞「折々のことば」より)

1本の記事の「ポストエディット」(機械翻訳の結果を用いた翻訳)を経験して思ったこと(2023年3月10日)

今回必要があって(また興味もあったので、自ら申し出て)複数の機械翻訳のお試し版を使いながら1本の記事(雑誌4ページ分程度)を訳しみた。その結果、今後もしこういう作業、つまり「ポストエディット」が仕事の中心になっていくと、おそらく自分の英語力は着実に落ちていくと思った。

いや僕だけではない。これから機械翻訳がどんどん進歩しその用途が広がれば広がるほど、人が英語を直接理解したり訳したりする必要性が減るわけだから、その分だけ我々翻訳者はもちろん、一般人の英語の読み書き(将来は話す)能力が落ちていくだろう。

どんな道具でも、便利になった分だけ人間の「その部分の」能力が落ちるのは当然だ。それを翻訳に当てはめて考えると、そのうち人々は諸外国後を運用できなくてもよい時代が来てしまい、外国語を自ら読み書き(話すことの)できる人は、単なる「趣味人」として扱われる時代が来るのかもしれない。そういうことを今回の一連の作業を通じて感じた。

もちろん「ポストエディット」とはAIの作り出した翻訳結果を元にした翻訳なのだから、人がその作業を通じて学べる技術や能力もあるとは思う。その道の専門家も出てくるだろう。今後はそういう人たちが「翻訳者」と言われるようになるのかのかもしれない。しかしそこで必要とされる能力は英語そのものの運用能力や我々が知っている「翻訳力」とは似て非なるものなのだ。今回の経験でそれを実感した。こういう世の中の流れは怖いし、寂しいと思った。

もっとも僕のこういう嘆きというか感慨は、無声映画からトーキー映画に変わりつつあった時代の活動弁士の心情と同じかも。

古いんだね。

(参考)

tbest.hatenablog.com

tbest.hatenablog.com

機械翻訳が容易な文章、難しい文章

翻訳者と校閲者が随時入れ替わるプロジェクトに参加して6年目になる。

翻訳者と校閲者の間で「どうして著者はこの表現を使ったのか?」「これは市場のどの動きを説明しているのか?」「なぜこのロジックになるのか?」というやり取りが毎月行われる。その上で、論旨を明確化するために段落内の文章の順序を入れ替える、情報を加える、情報を減らすといった工夫をする場合もある(もちろんお客様にはその旨説明する)。この作業は、校閲、編集(複数論文をまとめた表現調整)、最終見直し、仕上げ、納品の直前まで続く。今月もそうだった。

思うに、何かの手続きや手順を説明する文章はともかく、筆者が事実とロジックと信念に基づいて何かを主張している文章の場合、原文の解釈がどうしても必要となる。しかしAIは文章を「解釈」できないのだから、そこに機械翻訳を関与させるとどうしても人間の判断が必要になるのかもしれない。

今月のプロジェクトを進めながら、最近機械翻訳がらみの情報を集めていたこともあってそんなことを思った。

(ご参考)

tbest.hatenablog.com

「通訳は諦めから始まる」:2018~2019年3月9日に出会った言葉

(1)2019年3月9日
……通訳は「何も変えない、何も足さない、何も引かない」ものだと教える方もいるようですが、私は常に「通訳は諦めから始まる」と教えています。ただ、完璧にできないとわかっていても解けない問いに挑戦し続けるのが、プロではないでしょうか。
(『同時通訳者のここだけの話』関根マイク著、p27)

(2)2018年3月9日
(作詞とは)狂気の伝達です。狂おしいばかりの情熱を詞に込めて作曲家に伝える。感染した作曲家がスパークして曲を書く。そのエネルギーに感染して歌い手が肉と血にして形にする。そのエネルギーが時代にまで感染していく((NHKザ・プロファイラー~夢と野望の人生~「“時代”と闘い続けた作詞家~阿久悠~」から。音楽評論家の小西良太郎による阿久悠の歌の作り方)

機械翻訳(英和翻訳)のレベル(2023年3月8日時点での肌感覚)(2023年3月8日)

語彙力は英検1級クラスで、英検準1級レベルの構文把握力があり、

やや稚拙ながらそこそこ読める(=日本人の読者には理解できる程度の)日本語を書けるものの、

訳抜けも散見され、

そして、何といっても

書かれている原文の意味(含む文脈)をまったく分かっていない翻訳者。

てな感じでしょうか。

そう捉えると、現段階では分野によらず機械翻訳の単独利用は無理で、人間による管理がどうしても必要(自動運転車と同じで、この部分は機械翻訳がかなり高度化しても変わらないような気がする)。

ただし人間が訳す場合に「思い込みで訳がずれそうな自分」とのバランスが取れるという利点を持っているような気もする。

以上は、僕が5社の機械翻訳の「お試し版」を使ってみての、2023年3月時点での感想です。この感想はきっと変わっていくでしょう。

・・・

現役の翻訳者の皆さんは、「使える、使えない」「勝てる、勝てない」というレベルではなく、機械翻訳に訳させてみた肌感覚を記録(発表)しておくべきではないかなあ。いろいろな感想や意見があってよいと思いますが、残すことが大事と僕は思います。

間違ってたっていいじゃん。「権威者」のご宣託を待ってないでさ。

(ご参考)
(1)9年前の投稿です。

tbest.hatenablog.com

tbest.hatenablog.com

(2)5年前の投稿です。

tbest.hatenablog.com


(3)4年前の投稿です。

tbest.hatenablog.com

(5)関連の話題:5年前の投稿です。

tbest.hatenablog.com

 

「串刺し検索」はもはや死語?(2014年3月8日)

昨日の飲み会で、英和は研究社と三省堂アルク英辞郎)で有料サービス受けていると話し、内容を説明したら、「鈴木さん、それって串刺し検索をオンラインでやっているのと同じだと思う」と言われた。

確かに専門辞書は紙なのですが、「もうそれ(有料オンラインサービス)に慣れちゃっているのであればわざわざ辞書買わなくてもよいのでは?」とも。

パソコンの中に辞書をため込んで(買い込んで)串刺しに検索させる、というのはオンラインやクラウドがまだ未発達の頃の遺物と言えないでもない。特に研究社は定期的に新語を加えているのであればそっちの方が進んでいるとも言える、というご意見も。
う~む。

と考えています。

(後記)三省堂オンライン辞書はもはやない。

昔、翻訳の講習会等に行くと「串刺し検索」という言葉をよく聞いた。当時はまだこの言葉が生きていましたが、今もあるのかな?(僕はその手の講習会に何年も出ていないので僕が知らないだけかも)。この言葉、「電話帳」と同じで、聞いたこともない若い人もいらっしゃるかも。

とはいえ、これからの「串刺し検索」は文字通り「世の中の公開情報からの検索」を意味するようになる。そして契約した生成AIに登録済み辞書を入力しておき、例えば英文を打って「訳せ」と命じると、登録辞書からの検索語を優先した訳文(訳文には出所付き)が出てくる時代になっていくのかも(2023年3月8日記)。

「人は、勇気を出して声を上げなければならない時がある」:2018~2020年の今日(3月8日)に出会った言葉

(1)2020年3月8日
人は、勇気を出して声を上げなければならない時がある。
(「女子更衣室がトイレの中とは」主婦 小林淑子 本日付朝日新聞「声欄」より)
*引用文は、本日の朝日新聞声欄、女性差別がテーマに対するご意見の一節だが、投稿者である小林さんの主張には、女性差別だけにとどまらない大きな意味が、特に今のような閉塞感漂う時代だからこそ、あると思った。

(2)2019年3月8日
……accuracy(確度)とは、測定、または計算された量が実際の(真の)「値」とどの程度近いかを示す尺度を指し、precision(精度)とは、複数回の測定や計算の結果が互いにどの程度近いかを示す尺度のことです。
この概念は、通訳者になった後も、いや、通訳者になった今だからこそ大事にしています。というのは、極論ですが、通訳者に求められるのは確度(accuracy)ではなく、精度(precision)だからです。
(「プロの通訳は安定性が全て」『同時通訳者のここだけの話』(関根マイク著、アルク)p23)

(3)2018年3月8日
「朗読」とは何か?アナウンスやナレーションとはどこがちがうのか。それが一般には理解されていない。だから、「朗読」というとアナウンサーが原稿を読み上げるのと同じように文学作品が「原稿」として読まれる。朗読とは文学を「作品」として読むものである。そして、その声そのものが作品なのだ
(2月19日渡辺知明さんのツイートより)

よい1日を!