翻訳の世界で「1日に〇〇〇ワード処理できる」とか「1日の処理量は・・・」いう表現を見かけることがあるが、強烈な違和感を覚える。
翻訳に処理作業的な要素があることは確かだ。作業である以上効率性も必要だ。
でも僕たちはメッセージを伝えようとしているんだ。物を処理しているわけでは断じてない。翻訳作業全体が加工処理みたいな表現は嫌いだ。
「1日あたり〇〇〇ワードを処理する」と無意識のうちに言ったり書いたりしている人は、恐らく心の中のどこかで「翻訳は自動処理」という意識が働いているのではないか?
これは事の是非ではなく、自分がどちらを選ぶかという問題だ。
そして僕はそちらを選ばない。