金融翻訳者の日記/A Translator's Ledger

自営業者として独立して十数年の翻訳者が綴る日々の活動記録と雑感。

ジェイ・ルービン×柴田元幸「翻訳について語るとき僕らの語ること ~日本文学のビートとリズム『羅生門』から『1Q84』まで〜」を見に行く(2015年8月)

 


セミナー1時間30分のうちの大半が村上春樹の短編小説と、今回のプロモーションの対象である『日々の光』の日英(日本語を柴田さん、英語をルービンさん)朗読に費やされた。お二人とも音読は素晴らしく、私のようなミーハーが直接ご本人たちを見たり(有名歌手をながめるのと同じ)、肉声を聞くという意味では大成功ではなかったか。

翻訳に関しては、ジェイ・ルービンさんが柴田さんから「翻訳と創作とどちらが難しいですか?」と尋ねられて「翻訳の方がずっと簡単です」と断言され柴田さんもうなずいておられましたが、それはお二人とも本業が翻訳者だからだろう(それと柴田さんがルービンさんの意見を立てたから)と思った。その意味では『小説の読み方、書き方、訳し方』(柴田元幸高橋源一郎)の方が素直に読めました。

もう一つは、村上春樹の小説の音読が終わった時に、柴田さんが「英語で読んでも、日本語で読んでも浮かんでくる情景が同じ」と対談のテーマに沿った話を振りかけたのに、ルービンさんが「僕は全然違うと思う」と予定調和からはずれた感想を述べられたのには笑った(すかさず柴田さんが、村上さんには申し訳ないが、実は翻訳のこういう点の方がよく情景を表している・・とフォローしておられました)。

ルービンさんはあの小説を怒りで書き始めた(日本人強制収容所の話です)が、書き終わる頃には感謝の気持ちになっていた、一方柴田さんは、あの小説をもらった時「まあ、とりあえず読んでみるか」と思って読み始めたが、ぐいぐい引き込まれて読み終わる頃には自分が訳したいと思った、という話が印象的だった。

それとこの本共訳なのだが「きっちり半分ずつ(戦時中を平塚隼介さん、戦後を柴田さん)訳しました」とのこと。時代で分けたのでそれが訳文のトーンの変化になってよかったのではないか、と仰っていた。 僕としてはもう少し本書の背景や翻訳にあたっての裏話を聞きたかったところが若干の不満かな。

そして何と言っても昨日のセミナーでの白眉は、セミナー後の質疑応答における友人Nさんの質問だったと思う。

『日々の光』の日本語訳には擬態語(オノマトペ)がかなり用いられていましたが、それについてルービンさんはどう受け取られましたか?そして柴田さんはどう思われますか?と尋ねたのだ。

ルービンさんは虚をつかれた感じだったが、日本語訳は極めて自然で、自分は翻訳者であるけれども、私の訳したものがこれほど美しい日本語に訳され、音読されている奇跡に感動した、と答え、柴田さんは、英語の中に擬態語/擬声語の要素が入っていてそれを日本語にすると擬態語にした方がよい局面は少なからずある。ただ使いすぎると翻訳が子どもっぽい感じがするのでそこを出し過ぎないように抑制していると答えられた。

恐らく昨日の1時間30分で、翻訳についての意味のあるやり取りはNさんの質問を巡る応答だけではなかったろうか?後で飲みに行ったときに彼女にも言ったけれど、「これぞ金子靖教室の成果!」でございます(Nさんは本にサインをもらった時に金子先生に教わっているとおっしゃったそうですよ)。

金子教室にいた人は、Nさんを知らなくてもそのことに気がついたのではないかな?僕は迂闊なことに中野さんが質問されるまでその点を意識していなかったです(恥)。

実はNさんの質問の前が「自分の存在感を示すことだけが目的」としか思えない質問だったのだが、柴田さんがその中から「聞くべき点」をくみ取って真摯に答えられていたのにも感動しました。