金融翻訳者の日記/A Translator's Ledger

自営業者として独立して十数年の翻訳者が綴る日々の活動記録と雑感。

気がつけば講師(2018年10月)

「鈴木さ~ン、勉強会とか講演会とか無理ですよね」
「無理でーす。でけまへーん」
「じゃ、飲み会は?飲み会だけでもどーかなー?」
「え~、どうしよーかなー(と思わせぶり)」
「費用こちらで持ちますから」
「え~そうなの?(デレデレ)・・・じゃあ、僕、すごく忙しいんだけど、そんなにおっしゃるなら無理して無理して行きますわ(態度豹変)」
「ありがとうございます・・・・!!!ところで、酔っ払う前に、ちょっと雑談の時間取っていいすか?」
「雑談ね、何分ぐらい?」
「30分から1時間ぐらいです」
「なにか怪しいなあ」
「まじ、雑談でけっこうです。準備要りません。ホントです!約束します!!!!」
「そうか~。そんなにおっしゃるなら、雑談ね」
「ええ、で、ちょっと質疑応答入るかも・・・」
「つまり、雑談と質疑応答だよねー、ホントだね?」
「大丈夫です!雑談雑談と質疑応答!!」
「了解です」

というやり取りがあって、翌日案内が来た。

「鈴木立哉先生ご講演『金融翻訳と私』」

おしまい。

*この話はフィクションであり、実在の人物や団体などとは一切関係ありません。

新規外交を止める(2018年10月)

色々思うところがあり、ここ半年ぐらいでこれまで付き合いのあった翻訳会社との契約更新を次々と止め、あるいは連絡が来ても原則断るようにしている。

10年前のJTF講演会で「請求書の数が5社になったら新規開拓を!」と息巻いていた自分が別人のようである。

いや、別人なのだ。もう10年たったのだから。僕は年を取ったのです。

そんなわけで現在はソースクライアント4社と翻訳会社1社が稼働中で、うち2社には「数年後に僕が止めたらこの人に任せて」という意味で、僕より10歳以上若いある人を紹介した。もっとも、僕にできることは紹介までで、その後トライアルに合格し、現在活躍されているのはその方の実力です。

で、昨日そのうちの1社と年末までの予定を電話で話していた折のこと。

「鈴木さん、11月は〇〇日~〇〇日、12月は〇〇日~〇〇日(それぞれ二週間ずつぐらい)、大丈夫ですか?」
「あ、だいじょぶ、だいじょぶ。ほら、僕ほかぜ~んぶお断りしてるから。心配しないで!」
「それはよかったわ」
「・・・でもね、Sさん、僕のこと見捨てないでね」
「え?」
「もう俺さ、御社とほか数社以外全部断っちゃってるんで、御社から見放されたら僕もうおしまいなの・・・」
「は~い」
「御社と心中なんです」
「あぁ、そうなのね。ご心配なさらないで。頼りにしてますからお願いしますよ」
「は~い」

やっぱ弱気が出たね。半年後に必死に営業してたりして。

(後記)上を書いたのは今から4年前の今日。2002年の独立以来、がむしゃらに顧客開拓をしてきましたがこの時(の半年ほど前)を境に新規顧客開拓営業を止めています。その間、おかげさまで、先方からのアプローチでいくつか定期の仕事をいただけるようになりましたが。昔ほど経済的に追い詰められていないこともあり、限られた数のお客様との仕事に丁寧に取り組むことを心掛けています。ちなみに上の記事で紹介したお客様からは今も毎月お仕事をいただいており、お付き合いは12年になります(2022年10月16日記)。

著者が手を抜いていない参考書(2018年10月)

参考書(広義に言えば勉強法本?)の善し悪しの評価に観点はいろいろあると思うが、全部やりきると明確に分かる(断言できる)ことが一つある。それは、「筆者(または編集者)が手抜きしているかどうか」だ。

「筆者または編集者が手を抜いた本」は悪口になっちゃうので、「間違いなく手を抜いてない本」と断言できるのは

1.『誤訳の構造』中原道喜著(聖文新社)
もう5回目ぐらいかな。「なぜこれがまちがいなのか?」が突き詰められていない感じのする箇所が何カ所かあるのがやや物足りないものの、文法書ではないわけで、僕にとっては絶対的な名著です。『誤訳の典型』『誤訳の常識』(それぞれ、2回目、3回目)は柴田耕太郎先生は「無意味」と切り捨てておられるが、読む価値十分にある。ただし一発目の『誤訳の構造』に見劣りするのは確か。

2.『TOEIC L&Rテスト 文法問題 出る1000問』TEX加藤著(株式会社アスク出版)
現在までで2回終了。明日から3回目。実際には1049問。TOEICのパート5(文法)対策問題集ですが、全1049問に対する4~10行の解説が超優れている。その特徴を一言で言えば、オールイングリッシュのいかにもネイティブ的な?(TOEIC本の多くは、「ネイティブはこう言う、こう言わない」という視点での説明が多い印象)テストの解説を、大学受験英文法的な視点で解説している点かな。よくぞここまで問題を集め、かつ懇切丁寧に説明してくれたと脱帽する。最低5回は繰り返す予定です。

あと、柴田耕太郎先生の本や伊藤和夫先生の本も、「手を抜いていない本」候補には入るのだが、いかんせん「まだやりきっていない」。

一方、僕が現在目を通している本の中にも、「いかにもページを埋めるためにつくっている章」「わざと間延びした議論にしている文章」「ちゃんと書籍の体系を考えているのかはなはだ疑問」(ちゃんと時間をかけて詰めていない)が目立つ参考書もある。時間がなかったのかもしれんけど、「読者をなめるのもいい加減にせえよ!」と腹を立てながらもいいとこ取り(参考にできそうな所だけかじる)しています。

いずれにせよ、普通の読み物はともかく、こういう類いの書籍は最初から最後まで全部読み、全ての問題を解いてからでないと評価できないと思います。

「俺が、俺が」の姿勢を反省(2018年9月)

昨日は「「世界のティール実践者」との出会いをネタに対話を深めよう」という勉強会、というか対話会に参加した。『ティール組織』解説者の嘉村賢州さんをはじめ、この春から夏に実際に著者のラルー氏に会いに行ったりティール組織の国際会議に出席されたりした9名のパネリスト、というかコアとなる皆さんの下に自由に集まり、それぞれのテーマについて話し合うという会(語り合いたいテーマはコアの皆さんから事前に短いプレゼンがあった)。

30分×3回の対話会を通じて最も感じたのは、僕が参加したセッションで対話に参加されたほぼすべての皆さんが「ギラギラしてない」=「俺が俺がタイプではない」ということだった。

前回参加したセミナーでおもしろ法人カヤックの柳澤社長が「(もし当社がティール組織だとしたら)、ティール組織は『自分が何かをやってやろう!』というよりは、『この人たちと一緒にみんなで何かをやりたい』人に向いていると思う」とおっしゃっていたことの意味を改めて実感した。自分が話すよりもまず、他の人の意見や感想に耳を傾けようという皆さんの集まり、という印象だ。

一人で自分を売り込むことに16年。どうしても「俺が俺が」になりがちな僕は大いに反省した次第。行ってよかった。主催の下田理さん(『ティール組織』担当編集者)に感謝。

「素人さん」「アマチュア」「ひよっこ」「駆け出し」

出会った言葉:
 校閲者が「日本語のプロ」「日本語の専門家」だと思っている人は、意外に多いようです。……
 それは、違いますね。自分を専門家だ、日本語の知識は誰にも負けない、などと思っている校閲者は、はっきり言ってダメな校閲者です。己を疑わない校閲者に、校閲はできません。
……
……調べずとも済む当たり前の部分と、「これはちょっと確かめておかないと危ないぞ」という部分との匂いを嗅ぎ分けて、危ない部分は慎重に調べて行く。ここらへんの呼吸は、長年失敗を繰り返して身につけていくしかありません。「言葉の素人」であることを常に訓練しているような者ですね。
校閲者は「言葉の素人」のプロ 『その日本語、ヨロシイですか?』井上孝夫著 新潮社 p15-16)

 

 ご紹介した文章は、11月に著者の方のセミナーに行くので事前学習に読んだ著書の一節から引いたものですが、ことさら校閲者というというよりは、職業人(特に専門職と呼ばれる人々)として身につけておくべき謙虚さの重要性を説いた文章として読みました。

 自分のことを言うならまだしも、その仕事を始めたばかりの他人を「素人さん」「アマチュア」「ひよっこ」「駆け出し」と呼称する態度を許容する雰囲気に嫌だな、と僕は思います。かつて証券会社の引受部門にいたときにも同じことを感じていました。転勤が多い証券会社の中で、この道何十年という人がたくさんいたのです。もっとも当時(25年前)の証券界はもっと言葉がキツくて「このど素人がぁ!!!」「くそガキ!」てな感じの言い方でしたが(今は違っていると思いますけど)。

 専門職と言われ、同じ職種に長くついていると、そしてそういう同類がある程度集まってくると、同じムラの中で自分を他よりも上に置いて置きたいという風潮が生まれやすいようです。そういう雰囲気が本当に嫌だった。

 翻訳教室や講演会に行くと、講師の方が時たまこういう言い方をすることがあり、ご本人は悪気がないのでしょうけれど、そのたびに昔のことを思い出し、「ああこの方もムラ社会の悪習に染まっているなあ」と不愉快にもなり、残念な気持ちになったものです。

 「鈴木君、誰でも最初は素人さ。千里の道も一歩からだよ」入社8年目で突如引受部門に配属されて先輩方からいじめられて落ち込んでいたときに先輩の一人から掛けていただいた言葉を、僕は今でも、感謝とともに、その声音まで覚えています。

tbest.hatenablog.com

校閲者(チェッカー)が自己主張を始めたら・・・

校閲者が自己主張を始めたら終わりだと思う。

最初の翻訳者をリスペクトし、その翻訳を生かす。自分はあくまで黒子であると肝に銘じ、なるべく元の翻訳に触らず、一定の質を保つために最低限必要な修正案を施す。

そして時間の余裕があれば、その修正案を翻訳者に見せて、最終決定権を翻訳者にわたす。
ある仕事で、僕はなるべくそうしようと努力しているのだけれど、時に自分の「我」が出てしまうことがあるのは戒めないと。

そして、最低限必要な修正を施しているはずなのに、大半が訳し直しになってしまったら?翻訳者を代える(能力がないから)か、校閲者を代える(分をわきまえてないから)しかないんじゃないかしら。

いずれにせよ、校閲、いわゆる翻訳チェックは、翻訳志望者にできる仕事ではない。少なくとも「翻訳者になる前に、まずはチェックから・・・」は順番がちがう。

翻訳は「作業」か?

以下はあくまでも好き嫌い、というか心理的な抵抗感の問題です。

最近翻訳関連の書籍を読んでいてひっかかるのは「処理する」という表現かな。「〇〇という表現の処理は難しい」とか「ここから先は処理に困る箇所はなさそうです」とか。

同じような意味で、「手が早い」「手が荒れる」という表現にも抵抗を感じる。

それほどじゃないけど、翻訳「作業」という言葉も。

以上の表現は、何か翻訳を手仕事、というか手先の仕事にたとえているような感じがする。どちらの方がよい悪い、高級、低級ということではなく、翻訳のたとえとして違うのではないか、という気がして僕はなるべく使わないようにしています。

毎日ウンウン唸りながら原文の一語一語を飲み込んで、日本語の言葉を絞り出して、置いて、並べて、また並べ直している感じかな。

僕の英語力と日本語力の問題かもしれないけれど。