金融翻訳者の日記/A Translator's Ledger

自営業者として独立して十数年の翻訳者が綴る日々の活動記録と雑感。

出版翻訳は「趣味」(2018年3月)

先日、実務翻訳者が集まる会合があって、その席で、「鈴木さんは実務翻訳と出版翻訳の(時間)のバランスをどう取っているのですか?」という質問を受けた。

「取っていません」と答えた。

「僕は食うためにまず実務翻訳に時間をかけます。それで余った時間に出版翻訳に取り組みます。したがって、実務翻訳をしていない時間はすべて出版翻訳に費やされます。したがって書籍の翻訳をしている期間中は、事実上休みがなくなります」

勤め人の皆さんは、例えば朝9時~午後5時まで働いておられるでしょう。私にとっての実務翻訳はその「お勤め」にあたる。出版翻訳はそれ以外の時間、つまり「余暇」に行うとお考えいただければピンとくるのではなかろうか。

ちなみに、2002年から今年までの16年間で私は訳書(共訳書、名前の出なかったものを含む)を16冊、著書を1冊出している。すべて余暇時間に取り組んだものだが、ならすと1年に一冊のペースとなる。本に取りかかると一冊あたりの総翻訳時間が平均550~600時間(ちなみに』『ティール組織』と著書『金融英語の基礎と応用』はいずれもほぼ1000時間ずつかかっている)。1日あたり3時間も取り組めれば良い方。1カ月で書籍翻訳に100時間もかけられれば「かなり取り組んだ!」という感覚だ。実務翻訳で締め切りが込むとしばらく取り組めなくなる。2016年、つまり『ティール組織』の翻訳の真っ最中にはブレグジットをめぐる国民投票トランプ大統領の誕生など、事前予想とはほぼ真逆の結果となるイベントがいくつもあって私のスケジュールは「毎日締め切り(あるいは毎日複数の締め切り、ひどい時には朝昼晩にそれぞれ締め切り)」状態で1週間ほど書籍に取り組めない期間もあった。そういう経緯をたどるので、訳書の場合初稿を出すまで平均8~10カ月かかる(その後編集者とのやりとりや校閲が入る)。

したがって、書籍に取り組んでいる期間中は休みが一切なくなる。それが私の場合この16年間ずっと続いてきた、と思ってもらえればよいと思います。

これだけの時間と労力をかけて収入は?初版4000~5000部、定価2000~2500円、印税率6~7%で計算していただければ、簡単に出るっしょ。なお、参考までに書いておくと17冊のうち12冊は初版止まり。重版になったものもせいぜい1万部程度で、その点からすると現在4刷り3万部の『ティール組織』は例外中の例外。私にとってみると16年目にして初めて「宝くじに当たったような」気分である。

それでもやりますか?というのが1月に大阪で行ったセミナー「翻訳ストレッチin 大阪」の後半部分の「ここだけの話スペシャル」のキモであった。

それでもやるんだけど、僕は。名前が出るし、仕事が残ったという実感を持てるし、何と言っても面白いし勉強になるから。実務翻訳者が出版翻訳に取り組む、ということはそういうことなんだ、というのが僕の実感です。

上のような生活は嫌だ。でも出版翻訳やりたい!と言う方へのアドバイスは・・・

1に給料2に配偶者、3,4がなくて5に資産。

に尽きます。「給料」とは勤めを続けるということ。柴田元幸先生が「翻訳は趣味です」とおっしゃったのはこういうことである(柴田先生は東大教授としての給料をもらっていた)。「配偶者」とは「配偶者の収入に頼る」ということ。専業主夫(婦)になるか、ヒモになる、ということ。「資産」とは預金を取り崩すということです。

 

 

「リーダーを育てる」が学校の教育目標?

昨日の勉強会後の飲み会でのこと。

勉強会のテーマが「1968年」だったからかな、その流れで中等教育の目的てな話題になった。飲みながらこんな話になった、というか酔っ払った勢いでこんな話をぶった。

「『将来のリーダーを育てる』を教育目標にしている学校は進学校を中心に多いし、教育雑誌などを読むと校長先生や理事長の挨拶にもよく見かける。

しかし、

①ほとんどの生徒たちはリーダーにならないはずなのだから、そのための教育をする必要ってあるのか?そんなことをする暇があったら、相手の気持ちを思いやる教育、友達や仲間の存在を認め合いながら仲良くしていく教育の方がずっと意味があるのではないか?(これはかつて読んだ内田樹さんからの受け売り)

②「リーダーになるための教育」って、一定集団がすでにあることが前提になっている。すでにある企業に「就職する」「入る」ことが前提になっている。もっといえば、その集団の「上」に乗っかった時の教育だ。

でも、今世界でイノベーションを起こしている企業は、ほとんど一人、または2,3人からはじまっているのでは?

少人数で起業して大きくなっていくために必要な教育の第一は「リーダーシップ教育ではない」はずではないか。将来人数が増えてくれば「リーダー」は必要になる「かも」しれないが、それは組織が大きくなっていく中で必要な資質が養われていくはずで、学校教育であらかじめ仕込む内容とは違うのではないか?

③そもそも今後の組織にいわゆるexplicitな「リーダー」は必要なのか?(ここは『ティール組織』を念頭に置いている:6月の月例会は僕が発表することになっている)」

そうしたら、勉強会メンバーのNさん(超大手企業の人事部で研修等を御担当)が、

「あ~確かに。でもそれって大企業における人事研修制度を根本から見直せってことですよね。あ~どうすりゃいいんだろう?」

ちょっと問題提起になったかも。

 

クラス全員を「小さな企業家」に育てる教育。……正気ですか?(吉川浩満氏 文筆家) - 金融翻訳者の日記

独立して気がつくこと(フリーランスになるってことはさ・・・③)(2018年3月)

30年以上サラリーマンをやってきた友人が会社を辞めて自営業者になる。その彼が「最近自分がケチになったような気がする」と。

「コスト意識が芽生えただけではないか?」と指摘したら深く頷いていた。

「頑張るしかない」(2018年3月19日)

一昨年の村井章子さん、昨年の土屋政雄さんの講演会を振り返って思うお二人の共通点の一つは、

余裕を持って悠然と仕事をしているようには見えなかった、ということだ。

村井さんは確か昨年5月の連休後から8月(だったと思う)の講演会まで一日も休みがなく、ゲラが来ると「3食をパソコンの前で取る」と仰っていたし、土屋さんは「仕事のために読む本で忙しくて読書はほとんどしない」とおっしゃっていた。確かカズオ・イシグロ氏のノーベル賞受賞の瞬間は仕事をしていて、編集者からの電話で知ったと新聞にも書いてあった。

これがもし悠然と、朝ゆっくりと起床して、午前中から午後にかけてゆっくり仕事、夕方から読書して夜はお出かけ。

とか

一冊終わったら趣味をたっぷり楽しんで、十分に休養を取って鋭気をやしなってからのんびり仕事しています。

とか

僕は私は趣味が楽しくて、その合間に仕事しています

な~んて言われちゃったら僕なんかもう「参った!」って感じなんだけど、お二人ともどことなくセコセコというかガリガリというか、モリモリ頑張っています。そんなのんびり構えていられませんていう姿を見せられますと、

僕も頑張ろうかな・・・

という気がしてくるんですわ。

いや~、1月4日から一日も休まずに仕事していてそれでもいろいろ遅れてる。家族からは「いい加減止めてくれ」「もっともっとのんびりゆっくりしてくれ」と言われて何か自分がちょっと揺れたような気もするんだが、さっきふとそんなことを思い出して元気が出た。

失礼(この書き込みも現実逃避の一つであることは認める)。

参加したセミナーの圧倒的な熱気に焦る

昨日出席したセミナー、僕が普段出ている勉強会やセミナーとまったく違う刺激がありました。その特徴だけメモ的に。

1.若い人たちのエネルギーに満ちあふれていた。
 講師の嘉村さん、佐宗さん(お二人とも確か36歳)、ファシリテーターの入山先生(たぶん46歳)をはじめ、200人ぐらいいた出席者の大半が(おそらく)30代中心ではなかったか。ただし「若い」と言っても否定的な意味ではない。ものすごいエネルギーで講師の方々の意見を一分も漏らさず聞こうという熱気の元を見てみたらみんな年齢が若かったということ。

これは先日の出版記念パーティーの時も思ったのだが、名刺交換をすると「代表取締役」「ファシリテーター」「プロデューサー」等々企業でリーダーシップを取っている人たち「なのに」(こう思ってしまうことがすでに僕の偏見であることを反省しています)、その集団はさながら大学のサークルの集まりのような雰囲気。

「この手の(ティール組織のような)組織論が理解できるのは40歳代前半まで」と言い切る質問者、大いに頷く会場全体、という図式は、日本の明日は明るいと僕に十分思わせるだけの迫力があった。

翻訳者の集まりにだって若い人たちはたくさんいるはずなのに、この違いは何なんだろう?翻訳者の会合では若い人たちが遠慮しているのかな?それとも老害が跋扈しているのかなあ・・・などと肌触りの違いをはっきりと感じた。

「このテーマに共感する人たちですから・・・」とは嘉村さんの解説。いずれにせよ、あそこに集まった人たちの圧というか熱気に触れただけで行った甲斐があった。

2.プレゼンテーションのテンポというかリズムが心地よい。
これは講師であるお三方の勉強量と実務力、プレゼン能力の高さなのだろう。ポン、ポン、ポンと進んでいき聴衆をまったく飽きさせない、目が離せない展開。

3.目線が平行
この手のセミナーには時々ありがちな、「知っている人が知らない人に教えてあげる」といった上から目線が3人の方々にまったくなかった。参加者の皆さんと同じ立場で、同じ目線で、でもそれぞれ違う経験を語り合っている。そして語りかけてくる相手の見解を、リスペクトの視線で拝聴する、というスタンスが一貫していた。

4.質問に無駄玉(時間稼ぎ)が一つもない
これが結構な驚きの一つ。僕が「慣れっこ」になっているセミナーでは、それが質問なのか、単に自分の意見をひけらかすための時間稼ぎなのかわからない発言者がいるものだが、そんな質問は一つもなかった。質問者は本当に知りたいことをストレートに尋ね、回答者(嘉村さん、佐宗さん、入山さん)が対等な目線で真摯に応えるというやりとりが実に爽快だった。ある質問に「わかりません」とお答えになった佐宗さんの一言が非常に新鮮でした。

なかなか時間が取れないんだけど、こういう集いには時たま参加しておかないと時代に取り残されるなと実感した2時間半でした。

いや~、イイ物見た。お三方と聴衆の皆様に感謝。

 

peatix.com

AIは小説を書けるが小説の解釈はできない(2018年3月3日)

おはようございます。

出会った言葉:
「私はあなたが好きです」という文がある場合、AIにとっての「意味」はこの文が真か偽かだけだという。しかし、人間はこの短文にさえ、様々なニュアンスを見いだせる。
(「AIVS教科書が読めない子どもたち 新井紀子著 人にしかできぬ読解の危機」本日付日経新聞読書欄より)

*語義、用語や、フレーズの解釈、文法が厳密に、つまり狭く定められている文章ほどAIにとって代わられやすい。つまりは抜群の記憶力(連想力ではない)と比較分析力が仕事の大半を占めている分野ほど将来性がない、ということでしょうか。AIは小説を書けるが小説の解釈はできなさそうです。

よい1日を!

(後記)5年前の記事。確かにAIは小説の解釈はできない。ただチャットGPTは検索を通じて、ある種の解釈を「提示」はできる。自らは解釈できなくても。では、自ら解釈できる日は来るのか?

「機械(ソフトウエア)ができることは機械にさせた」利益は顧客に還元しなくてよいのか?(2018年3月3日)

「機械(ソフトウエア)にできることは機械にさせる」という考え方には僕も反対しない。「てにをは」や誤字脱字のチェック、同じ用語を使わなければならないところにその用語を使う。長い単語の打ち込みを省略する、等々だ。

もちろんそれを機械にさせることで落ちる感覚や能力もあるとは思う。たとえば、本来の校閲で求められていた能力、助詞に対する感覚もそうかもしれない。辞書だって紙で引いたからこそ良い側面はあるはずだ(河野一郎先生なんかはまだそちら派)。

これはもうバランスの問題で、失われる能力よりも得られる利便性の方が高いから、たとえば私も校正ツールを使ったりするわけです。そこにカネをかけてもいる。

ただ昔は、100の仕事のうち5%を機械にさせて省力化していても100%の料金を請求できたけれども、5%が10になり20になり、30へと上がってきたらそんなことを言っていられなくなる。「機械ができなかった分しか払いません」というお客さまが出てくるだろう。

昔々、何かの本だかセミナーで、「これこれこういうソフトを使うとほらご覧、1時間で4000ワードができあがり」なんてのを読んで眉唾だなと思ったが、仮にそれが可能だったとしても、機械でやる分にもお客さまがお金を払っていたから(それは、そういう省力化もノウハウの一部だからという理由でお客さまにそういう方法で翻訳していますと言わないから)成り立っていた話。

僕には縁がないんだけど(すべて断っているから)、マッチ率なんてのはそういう流れではないかな。昔は不問にされていた、あれこれの省力化のノウハウ(のコスト)をお客さまに負担させて良いのか(翻訳者側だけが享受していてよいのか)?なーんて話がでてくるかもしれん。

(後記)これを書いてから5年。ここ1年ほどの機械翻訳の急速な(文字通り加速度的な)発展によって、翻訳の役割分担、料金体系が根本的に変わってくるような気がしている。(2023年3月3日記)